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愉和の技術について

手を当てているだけのように見える

では具体的に、どのように操法するのかということですが、少なくとも、ハタで見ている限りは手を当てているだけのように見えるでしょう。

時折付き添いの方や、操法を見学したいという方が、お受けになる方といっしょにご来室されます。

私は、操法を受ける方の知り合いであれば、プロ、アマ問わず、どなたでも見学は許可しています。
プロの方であれば、なにかしら気づきを持っていただいたり、またもしかしたらご自身の現在おこなっている療法に疑問を持たれたりするかもしれませんが、いずれにしましても、その方の施術の発展に貢献できれば幸いですし、一般の方であれば、「こんな療法(整体)があったのか~」という発見をしていただければ、なにも痛い思いをしなくてもよくなる方法があることを確認できると思うのですね。

ただし、手を当てているだけで、「なにをやっていたのかよくわからない」という感想がほとんどなんです(最近は手を当てることすらなくなってきています)。
もちろん、それは致し方のないことでもあります。

しかも、質問をされても、なにをどのようにやっていたか、これを説明するのはムズカシイ。
解剖学的見地で、骨や筋肉という視点でやっているわけではまったくなく、いわば「気の流れ」、「お互いの感応」を感じながら、ご本人の生体からの反応による快復を期しているわけなのです。
ところが、こんな説明ではさらによくわからなくなりますよね。

この項で、よくご質問をいただく、愉和の操法のメインの、できるだけ明解な解説をしてみたいと思います。

硬結とは

まず愉和の操法では、硬結をほどく、ということが主体となります。
このこと自体は、さほど目新しいことではありませんよネ。
では硬結とはなにか。
このあたりの認識が、まずもって一般の療法とは異なるのではないでしょうか。

私は、硬結とは「気の流れの滞った処(ところ)」だと諒解しています。
それは、どんなところでしょうか。
ひとつには「コリ」ですよね。肩こり、首こりなど、コリコリしているものです。

ところがふつうにさわってわかるコリだけではなく、小さいものもあります。
たとえば針の先のようなまでに小さいもの。
これは、物理的な形を指先で確認しようとしても、ムリが出てきます。
スッと指をスライドさせたときに感じる微妙な引っかかり、なんとなくの違和感などで感じなくてはならない。
このような硬結は、たとえばヘルニアなどの状態が表面(皮膚)に表れているときなどに感じられます。
また、ある部分が力をなくして弛緩してしまったとき、その奥に感じられることもあります。

それと、ゼリー状のような硬結もあります。
印象としては、ネチャッとした感じ。
弾力としてはふつうの皮膚とそれほど変わらないので、見過ごすことも多いかもしれません。
ところが丁寧に観てきますと、けっこうあります。

たとえばぜんそくを持っている方ですが、鎖骨(さこつ)と胸骨(きょうこつ)の関節はまずこわばっていますが、それと同時に、意外と多いのが、左胸(肋骨上)にゼリー状の硬結が拡がっていることです。
それをほどきますと、軽いものでしたら症状はなくなっていきます。

そして筋肉だけではなく、骨の上にも硬結はあります。
これは、骨に圧迫があったように感じられます。
「骨が痛い」というのもけっこうありますが、よく観てみますと、しっかりあるんですネ。

あとは、腫瘍です。
これもまた、気の滞りです。

硬結とは、ことほど左様に微妙なものも多く、対応するにはよほどの集中力がまずもって必要です。
ですからそれを感じるためには、静かにこころを澄まして、「命」に感応しなければなりません。
コってるから揉んだりほぐしたり、歪んでるからバキバキとやるような手法では、あまりに大味すぎます。

いかにしてほどくか

まず最初にすべきことは、硬結を確実につかまえることです(こちらの手はモニター=センサーとなります)。
ところが容易につかまえられるものもあれば、なかなかつかまえるのがムズカシイものもあります。
動かない硬結、骨や筋肉に付着している硬結は比較的つかまえやすい。
しかし浮遊しているような硬結は難儀したりします。
力加減、角度、微妙なものが求められます。

そしてさらにつかまえた後、その硬結の状態をモニターできるようにしておくことが大切です。
どのように変化したか、またはほどけたのかをリニアに判断するためです。

そして、硬結をつかまえた次にすべきことは、硬結の処(箇所)と対応する一点を見つけることです(こちらの手がハンドルとなります)。
これは経験上、必ずしも一カ所に限られるものではありません
しかも、硬結の変化とともに場所も移動したりします。
いささかも力は使わずに、揉んだり押したりせず、硬結がほどけるまで変化についていくことが求められます。

要は、操者はなにか操作をするのではなく、本人の生体と対話し、反応を感じとり、生体がおのずと変化するにまかせること、そしてそれをみとどけることが、課せられた課題ということです。

治されたからだは元に戻りやすいですが、みずから変化したからだは、逆に整う勢いがつきます。
しかも、硬結がほどける過程において、おのずと歪みも解消されてゆきます。

これが現時点で私が考えられる、もっとも自然の法則に順った操法であり、同時に愉和の操法のなかの要となるものです。

いかにして対応の一点を見つけるか

これは、単純に表裏というものでも、左右対称でも、対角線上ということでもありません。
ですから、やっかいです。

要はひとえに、手の感触によって探さねばならないということです。
手を敏感にすることが大前提で、ハンドルしている手が対応する箇所に来たときに、モニターしている手までスッと通ってくる感覚、また硬結がただちに変化する感覚をつかむこと、これがなにより大切なのです。

こんなふうに書くと、特別な能力を持った人しかできないものかと思われがちかもしれませんが、そんなことはありません。
おそらく誰でもが本来持っているものですから、やってみると意外とわかるかもしれませんヨ。

私は操法の最中、ほとんどを瞑目しておこないますが、それは全精神を感覚に集注するためです。

受けている方、または見学している方から見ると、まるで魔法でも使っているかのように硬結がほどけ、痛みもなくなり、骨格的な歪みも正されるというふうに受け取られることもあります。
しかし私がやっているのは、ただからだの声を聴き、そのメッセージにしたがって手を当てていくだけです。
よくなるのは、からだそのものなんです。

ですから、相手のからだを感じ、相手のからだと一体になり、心静かにただあるがままに居り、焦らず、明鏡止水の地平にいることが大切なのだということです。

具体的に言いますと、当てている手(モニター側)で患部を感じていますと、それが流れていく感触が出てきます。
それが上に流れていくようであれば下に、下に流れていくようであれば上に原因があります。
つまり、ハンドルとなるべき手を当てる箇所を推察することがしやすくなるわけです。

また、私の知るかぎりこの操法は、これまで療法の世界ではおこなわれていないようです。
いわば、私がいくつもの臨床を重ねていくうちに、自然にたどりついたものです。
ですから、まだまだわからないこともあり、今後また変化することもありましょう。
ただしそれはあくまで、「自然の法則の基において」です。

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