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操法について

操法とは、ただ他力的な力でシステムを修復しようとする一方的な行為などではなく、双方の生命の調和による気の感応を前提とするものと考えます。
ですから、操法をおこなう者は能うかぎり、受ける者の自律的反応を妨げてはなりません。
また、操法の施術とは、双方が癒されるものであるべきなのです。

愉和の操法とは、からだ(心と体=命)を信頼し、はぐくむことを信条とします。
単に病気治しであったり、愁訴をとるためのものにとどまりません。
最終的には活き活き溌剌と、気持ちよく生き切ることこそが、その目的となります。

操法をする者は、決して本人のからだを作為的に操作をするべきではなく、本人自身の力(自然の治癒力)の発揮を阻む箇所の閊(つか)えを解放することで、自律的回復を鼓舞することを第一とせねばなりません。
つまり、「治す」のではなく、「治る」ように導くわけです。
症状や疾患を追うだけでは根本的解決にならないばかりでなく、症状を抑えることによって問題が内攻する恐れもあるからです。

ひとつ確かなのは、痛みはからだからの警告であり、心地のよい感覚は快復していくサインだということです。
この、あまりにシンプルで奥の深い奥義、あるいは生きとし生ける者に与えられた天然自然の法則は、まさに不易です。

操者は、本人の生体(いのち)からの反応を聞き分け、内動する「勢い」、「流れ」を読み、とらえます。
そして、それに適った必然的な角度を決め、その望むままの反応の経過を、必要充分に出させます。
あくまで生体の望むことですから、心身の深奥からの心地よさが伴います。
そうすることによって、症状や疾患を発症する必要をなくしていくわけです。

これによって、腰痛などの痛みが早期に解消されたり、「治らない」と言われた疾患や病気、難病が目覚ましく快復したりします。

ここで特筆すべきは、そういった結果がよく奇跡的治療と呼ばれますが、それは操法をする者が治したのではないということです。
その者は、ただ本人の力を発揮できるよう導いたのみで、もともと「治るべきからだ」であったということに過ぎません。
ただ、いかに余計な処置をされ、いじられすぎて力の発揮できなくなったからだが多いか、慄然とします。

本人の力を発揮して治ったからだ、また経過し終えたからだは、さらに健康になります。
逆に治され、症状のみを抑えられ、庇われたからだはバランスを崩したり弱くなったりします。

以上が愉和の立処であり、その操法です。