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大本への感覚

目に見えないものが大切

サン・テグジュペリの「星の王子さま」のなかで、キツネが王子さまに、「大切なものは、目に見えないんだよ」と諭す場面がありますが、これは、とても大切な言葉だと思います。

目に見える富、権力、地位などに目をくらまされて道を外す人が、どれだけいる(いた)ことでしょう。
「高級」や「セレブ」、あるいは「ファッション」などという名のモードが、果てしない欲望の連鎖を生み、どんどんと個人の本質からブレるような作用をもたらします。
物質の豊饒が膨らめば膨らむほど、中心感覚は空虚となります。
そうしますと丹田は虚となり、気が上がり、足が地につかなくなります。

でもたぶん、「いまの自分はどこかオカシイ」ということは、誰しも思っているのではないでしょうか。
魂からの警告は、つねにあるはずですから。
他とのいたずらな競争をやめ、見栄の張りっこもやめ、妬みや憎しみもやめ、社会にとってだけ都合のよい「個性もどき」を捨ててホントの個に帰り、こころが静かになったとき、目には見えない、自分の中心が見えてくるのではないでしょうか。

その中心のコアとなるのは、おそらく大本であり、生きとし生けるものが生活を営む、この奇跡ともいうべき世界への感動、そして深奥の感覚につながるのではないかと思っています。
もちろんこれは、ただ私の思うところに過ぎません。

ちなみに整体でも、目に見えるところだけを相手にしていますと、おかしなことになってしまいます。
表象(カタチ)にとらわれることなく、症状や病気の大本をたぐってゆかねばなりません。
整体において成すべきこともまた大本への道程であり、ゆきつくところ宇宙意識となるべきなのかもしれません。
その過程において治療があり、また指導があるのだと思うのです。

音楽のこと

若い頃は、とにかくテクニックを身につけたくて一生懸命練習をしました。
でも、指はとっても速く動くんだけれども、演奏はちっとも面白くない。

とあるテクニシャンのクラシック・ピアニストがありました。
彼はとにかく機械のように正確で、メカニックな凄さが比類ないものでしたから、こんなふうになりたいと思い、目標にしたのです。
ところが後年、ウイルヘルム・ケンプのベートーベンを聴き、その演奏に打たれてしまいました。
現在も出ていると思われるアパッショナータのステレオ版の方ではなく、彼の若い頃のモノラル版に特に。
聴いているあいだ、微動だにできないのです。

演奏としての完成度などは問題ではありません。
ただ、その魂からほとばしるような音は、私をとらえて放しませんでした。

ケンプは、言ってみればテクニシャンではありません。
もしかしたらテクニックは、純粋な魂の発露を妨げるものではないか。
私はあらゆる音楽を聴きますが、どんなものにも共通して言えるのは、魂の演奏は感動を呼ぶということです。
逆に、テクニックに溺れますと、「仏作って魂入れず」になってしまいます。
私はまさに、そのような感じでした。

現在、こころを静かにしてピアノを弾きますと、精神は集注するのだけれどもさらに安らかになり、おだやかな静謐が生まれることがあります。
こんなとき、静謐の奥に大本へとつながる感覚があるような予感に抱かれることがあります。

現在、ピアノを弾くことは滅多にありませんが、いつか、そんなことを表現できれば・・と思ったりするのです。