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ここでは健康に関するものをはじめ、いのちと魂の琴線にふれる書物を紹介してまいりたいと思います。


死後の真実(E・キューブラー・ロス) 丸くゆっくりすこやかに(吉丸房江)
万病を治せる妙療法(橋本敬三) いのちの輝き(ロバート・フルフォード)
死にゆく者からの言葉(鈴木秀子) 癒しのメッセージ(R・カールソン)
あるがままに生きる(足立幸子) 血液と健康の知恵(千島喜久男)
納棺夫日記(青木新門) いのちの勉強(帯津良一)
KATAN DOLL(天野可淡) 病院で死ぬということ(山崎章郎)
アウト・オン・ア・リム(S・マクレーン) 貧乏神髄(川上卓也)
心を病むってどういうこと?(古川奈津子) ひきこもりだった僕から(上山和樹)
わがいのち月明に燃ゆ(林尹夫) 望郷と海(石原吉郎)
整体入門(野口晴哉) 名曲決定盤(あらえびす)
猟奇王(川崎ゆきお) 前世療法(ブライアン・ワイス)
時代の未明から来たるべきものへ(間章) 禅とオートバイ修理技術(R・パーシグ)
唯一者とその所有(M・シュティルナー) フランケンシュタイン(M・シェリー)
独りだけのウイルダーネス(R・ブローンネク) 癌が消えた(C・ハーシュバグ他)
ダンディズム覚え書き(堀洋一) サロメ(オスカー・ワイルド)
アリス煉獄(窮野卿児




死後の真実
日本教文社 \1165
E・キューブラー・ロス著



この本の著者であるロス博士は精神科医であり、末期患者の精神的ケアをおこなう仕事に長く従事しておりました。彼女は多くのいのちを見送っていくなかで、いつしか死後の世界があることを確信します。なぜにそのようなことを思うに到ったのかといいますと、そう考えなければ説明のつかないことが多々あったからなのです。
たとえば、ある盲目の方が臨死状態に陥り、心臓も止まっていたあいだ、その当人はいわゆる幽体離脱のように自分の肉体の上に浮かび、いのちの抜けたみずからの姿や医師らの様子を見ていたことがあったそうです。そして肉体に戻った後、自分の見た光景を話したのですが、その盲目の患者の話した内容は、色彩の細部にいたるまで事実と一致していたそうです。
彼女はさまざまな事例を挙げて、死の本質とは何であるのかを示します。ただ、それはいきおい生の本質とは、という問いと同義語になってまいります。そしてゆきつくところ死は恐れるべきものではなく、むしろなすべきことを終えたときに訪れる調和なのではないか、と思えるようになるのです。
この本の底流にはいのちに対する慈愛があふれており、もしも愛する人を失った方がいるとすれば、そのこころを癒しましょう。しかも、宗教家などが根拠もなく唱えたものではなく、むしろアカデミズム畑出身で、生と死の交錯する過酷な生業のなかで、こけまろびつ、あえぎながら紡ぎだされた結論であるというところに力強い説得性が生まれてくるのです。
この本の言わんとするところは、人生において起こることは必然であり、その人が成長するために必要があるということです。
また、彼女の著作のタイトルにはおよそ「死」という言葉が付されていますが、その内容は、まさに「生きる」ことのため以外ではありません。

参考図書として「死の瞬間」シリーズが読売新聞社から発行されています。また、中公文庫からも数冊発行されています。

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丸くゆっくりすこやかに
地湧社発行 \1500
吉丸房江著


30歳前に癌で両親を続けて亡くし、そのことから現代医学に疑問を持ち、老子などの東洋思想や東洋医学を学んだ主婦が健康道場を開きました。これはその経緯や活動、著者の健康観や健康法、また人生観までをつづったものですが、こと健康に関して書かれた著作のなかで、この本のように読んでいて気持がほぐれ、なんだか幸福な気分になってくるというものもめずらしいのではないかと思います。
たとえば自然治癒力を標榜していながら、こうしないと悪くなってしまうぞというような脅し文句を頻発する先生方が多いなか、生きるということそのものの力を信じる姿はとてもさわやかです。しかも、その信念通り多くの難病が治癒していきます。
健康道場でおこなうことは一種の絶食療法といえましょうが、実のところそれだけではなく、よい気が生まれるように環境にも気をくばり、有機的な酵素飲料も使い、さまざまな観点からいのちそのものに焦点をあて、リラックスした状態のなかで体にたまった毒素を排出していきます。それでも、やはりいちばん大切にしていることは、まさにこころのありかたといえましょう。これは、他力でどうなるものでもありませんが、こころまでも変えてしまうことのできるような気の流れをつくってしまうのが、この健康道場、著者である吉丸さんのパワーなのだと感得いたしました。そのようななかで為された数々の癒しも、読んでいて充分に納得できるものです。

同版元から「宇宙のリズムで暮らしたい」「蝶になる日」があります。

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万病を治せる妙療法
農文協発行 \1171
橋本敬三著




操体法の創始者、橋本敬三医師の一般向け代表的著作です。
著者は西洋医学の医者だったのですが、肩こりや腰痛などの誰にでも起こり得る症状について、納得させる結果を出すことができなかったため、患者さんたちは民間療法のほうへ流れていってしまいます。つまり、町のほねつぎやさんや整体屋さんに患者さんをとられてしまったわけです。普通だったらただ落ち込んでしまうところでしょう。しかし、それからが彼のえらいところでした。
彼はなにをしたかといいますと、民間療法関係の人に頭を下げてそのやりかたの教えを請うたのです。医者に頭を下げられて気分の悪い人はいません。ほとんどの人は気持よく教えてくれたそうです。彼はこの時点で、はや操体をおこなっているようでもあります。
そのようにして橋本医師はさまざまな療法を学び、取捨選択し、またみずからアレンジしてつくりあげたのが他ならぬ「操体法」でした。これは強力な治癒効果を持つ療法でもあると同時に、生きかた、健康観の哲学でもあります。
筋ジストロフィーを改善に導いたことがあったのをNHKがとりあげ、テレビ放映もされたことがありました。しかしながら、その療法の持つ大きな効果のわりにはなかなか有名にならず、また正しい姿が伝わりにくい一面もあるようです。
ところで操体法とは、あらゆる療法のなかでも珍しく生体への性善説を採るものですので、これも療術家の書いた本であることを鑑みましても、めずらしく読んでいて気分が明るくなってくるものです。その根底を流れる考えとは、「気持よく生きればいいんだ」というもので、これこそはシンプルにして、いちばん大切なことだと思うのです。
橋本医師は明治30年生まれで、若いときは生きる意味を模索して苦闘を重ねました。からだの設計にミスはないという考えは、そのようなさまざまな葛藤や思想的超克を経た故のものです。そうしたことから、いきおい操体の思想も深淵なものとなり、学ぶ者にとって奥深い気づきの得られるものとなったのです。数々の恵みと、また、学びの場を残し、平成の5年に逝きました。慢心や欲望のない、まさに操体の教えそのものを体現した生涯でした。

橋本敬三の著作は、主に農文協、たにぐち書店から出版されています。

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いのちの輝き
翔泳社発行 \1500
ロバート・フルフォード著



これはすぐれたオステパシーの医師の、稀有なる自伝です。
オステオパシーは骨を外力でどうこうするというイメージがあるかもしれませんが、決して本来そのようなものだけではなく、特にフルフォード博士に到っては無理な矯正はせず、いのちを感じとり、生命エネルギーをはぐくむような治療をおこなってきました。
それはたとえば正しい形態というものがあるとして、それを無理やり患者にはめこもうとするようなやりかたではなく、むしろじっと耳をすまして生体の鼓動を聞き、リズムを感じ、そっと触れて生命が湧き出してくるのを待つような形に近いものです。
アメリカでは、オステオパスは医師と同等の権限を持つとするのが多いところから、安易に投薬をおこなうケースが大半を占めていた時期があったそうです。しかしながらフルフォード博士は、みずからの手を、感覚を信じ、すべて手技だけで治癒に導いてきました。
その立処は、本当の意味での自然治癒力であり、彼の言葉を借りれば「母なる自然」ということになります。
この本には彼の人生観、生命観、また健康を促進するエクササイズ、そして診察の様子から治療のやりかたまでも著わされています。どのようなものであれ、療術にたずさわる方は必読だと思います。
ちなみにアンドルー・ワイル博士がその著書、「癒す心、治る力」(角川書店発行)のなかの一章を彼に奉げています。

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死にゆく者からの言葉
文春文庫 \437
鈴木秀子著



人は死の直前、自分はまもなく逝くことを悟っているといいます。そして、自分がこの生のなかでなさねばならなかったことをすべて思い出すのだといいます。その人にはきっと、残していく家族や友人たちに話しておきたいこと、またなにかしらやり残したことなどがあるはずなのです。
そうなったとき、まわりの者たちはいかにそれを完遂させ、よりよく送るかということが重要となってきます。しかし残念なことに、本人はすべてわかっていて最後の仕事をやってしまいたいというときに、まわりではまだなにもこころの準備も覚悟もできてはおらず、死の話など縁起でもないこととして、受け入れられないことがしばしばです。鈴木秀子さんは数々の経験のなかで、どのように人は旅立っていったのか、そしてまたいかに旅立ちをサポートしたのかを静謐な筆致で教えてくれます。
病院で余命間もない方がいました。その方はかなりの見栄っ張りだったので、まわりからうざったがられていたのですが、あるときいきなり、自分のほとんど全財産である一万円で焼きいもを買ってきてくれるよう、無理をいって頼みました。そうして山ほどもある焼きいもを病室にいる皆に、「自分から」だといって配ったのですが、やはりどこかありがた迷惑な雰囲気がありました。なにもこんなにしこたま買わなくても・・と。しかしそれからほどもなくその方は心臓の発作で亡くなりました。そのときはじめて気づいたそうです。そのふるまいは皆への最後の挨拶であり、彼女の最後の仕事であったことに。
彼女のまなざしはどこまでもあたたかく、癒されます。

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癒しのメッセージ
春秋社
R・カールソン編



これは30余名のヒーラーが、どのような立処と考えを持って臨床にあたっているかを集めたものです。
現代医学が治療技術をどこまで発展させても、克服できない病は依然として多く、治療という姿勢そのものに疑問を持つ潮流が生まれてきました。
この本の内容のおおよその主旨となっているのは、1、治療を重ねることで治癒は導かれない。2、自然治癒力を引き出すヒーラーの武器は療法如何ではなく、最終的には愛である。3、本人の自然治癒力こそが真の治癒を導く。4、本人が治癒力を発揮するのは、本当の自分に戻ったときである。5、周囲との絆のありかたは、大変重要な要素となる。6、癒しとは、特別なものではない。だいたいこのようなこととなりましょうか。
実はこれを書いているのはオステオパスもカイロプラクターも、シャーマンもいますが、実はもっとも医師や心理療法家が多いのです。つまりアカデミズム出身の方たちがターニング・ポイントとなる気づきを得、他力的な治療という姿勢から方向転換をしようとしている姿をここにみることができましょう。
文章自体は濃密であり、すらすらと誰でも読めるというわけにはいかないかもしれませんが決して難解ではなく、少々の根気をもって読んでいただければと思います。

すべての癒しにかかわる方、また医療従事者の方には是非読んでいただきたい本です。

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あるがままに生きる
七賢出版発行
足立幸子著



ここに書かれていることこそは、まさに人生への性善説といえましょう。
実際現代において、本当にあるがまま生きている方などは、まずなかなかおられないでしょう。しかしながら、誰でもがそう生きたいと願う気持はあります。そしてそれを阻むのがお金の問題、生活の問題、見栄、プライドなどです。正直なところ、それらをすべて捨てるなどということは大変難しいことと言わざるを得ません。
でもよくよく考えてみると、それらはどれだけ頑張ったって気張ったって墓のなかまで、あるいは死後の世界には持っていくことはできません。喩えていえば、胡蝶の夢みたいなものでしょうか。
では、すべてが夢幻だとすれば、いまのこの生はなんのためにあるのでしょう。私たちはなにをすればよいのでしょう。彼女は言います、実はそれは、自分のなかに答えはあるのだと。つまり社会的都合や理性ではなく、本当の自分からの声、たとえば直感などに注意深く耳を傾け、聴き、そのようにすることによって、自分のなすべきことを得るのです。
神、これを真の我としますと、それはすべての人のなかにあり、同じものなのです。これは、個々の人々はそれぞれ個性があり、千差万別ですが、個を超え、内の奥底にある真我に達しますと、それはただひとつのものなのだということに他なりません。つまり、すべての人間こそが神であり、しかも実はつながっているのだといえましょう。
そして彼女はまた、「この人生は、味わうためにある」ともいいます。うれしいことも悲しいこともジックリと味わいましょうと。そのようにして人は魂に深みを増し、真我に近づくのではないでしょうか。
本当の自分になって生きていれば運命はどんどん開ける、「さあ肩の力を抜いて楽にいきましょう」と励まされる気がする本です。

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血液と健康の知恵
地湧社発行 \3800
千島喜久男著



千島学説という、現代の医学とはまったく相容れない説があります。逆にいえば、この学説がもし真であれば、現代医学は足もとをすくわれることになるともいえましょう。
それではどういった点が違うのでしょうか。非常に雑駁に申しあげますと、1、細胞は分裂によって増えるわけではなく、赤血球があらゆる細胞に変換する。2.これは可逆性がある。つまり、臓器を形成している細胞から赤血球に戻ることもあり得るということ。3、その赤血球は腸で造られる。ということになりましょう。・・といってもなんだかわかったようでわかりませんが、いったいこのことがなにを意味するかといいますと、もちろん生体のシステムのありかた自体がまったく変わってくるわけですが、そこからさらに一歩踏み込みますと、たとえば私たちは気血の流れと言いますが、まさにそれを健全に保つことが、なににも先だって前提となる健康への道筋ということになりましょう。消化器系がどうした、循環器系がどうした、はたまた泌尿器系、内分泌系がどうしたということではなく、まず血液に重要なポイントがあるということです。なぜなら血液こそが体をつくっているという考えだからです。昔から「食べたものが血となり肉となる」という言いかたをしますが、これは食物が消化器を通り、腸で血液となりあらゆる筋骨、臓器のもととなるという、千島学説の考えそのままです。たしかに昔の人は、直感でものごとを考えておりました。
ちなみにこの説では、癌細胞も存在しないという考えです。千島学説によりますと、癌細胞と考えられているのは、実は病化した血液であり、だからこそいわゆる細胞分裂では考えられないようなスピードで増殖するということです。また、癌をわずらっている方は胸椎の4番と7番に反応が出ます。4番というのは、まさしく血液に関連する心臓です。ちなみに7番は脾臓、副腎にあたりますが、私の考えるところ、おそらく免疫系に関係があるのではないでしょうか。また、血液の質に関連しますので、代謝系にも関係すると思われます。
私は医師ではありませんので、最終的に正否を判断することは叶いませんが、この学説は直感に響いてくることしきりです。深く研究してみたい方におすすめです。また、同じ版元で、読みやすくした解説書「千島学説入門」(忰山紀一著)もあります。

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納棺夫日記
文春文庫 \437
青木新門(写真は桂書房発行のもの)



実は、私は納棺夫という職業は知らなかったのですが、その字面から、なにを生業とするかは容易に想像できました。
「葬」というフォーマルな式典、セレモニーといった一面と、かけがえのないいのちを見送るという切ない行為のあわいで人の一生の光と影を見つめ、思索に沈み、その極北ともいえる地平から著者は、淡々とした筆致で書き進めます。
死者はどこまでも静謐に包まれており、残された者たちはみにくくうろたえ、錯綜します。しかしどこまでいっても、生きるということはまさにそのようなものです。ただ、私には彼は、むしろ死者のほうに親しみを感じているように思えました。おそらく、そのような仕事をしていますと生者よりも死者のほうに近しいものを感じるようになるのではないでしょうか。なぜなら、棺のなかの死者とは、みずからの鏡ともなろうものだからです。
「死」というもののかたわらで生業をいとなむことは、決して楽しいものではなく、浮世の世界でもうとんじられます。このことはことさら彼をして敬虔で、重厚な世界へといざなってゆきます。あるいはこの書は、人としての、魂の渇望の彷徨とも読むことができましょう。
この本はもともと桂書房から発行されていましたが、現在は文春文庫におさめられました。短編小説も編まれています。

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いのちの勉強
BABジャパン発行 \1500
帯津良一著



いちはやくホリスティック医学を提唱し、実践してきた帯津三敬病院院長帯津良一氏が、これまでの集大成のような形で医学のありかた、その射程、さらには生きかたそのものまでを自分の人生に照らして書きおろした本です。
ややもすると、医学の世界では「死」はそのまま敗北であり、治す手だてのなくなった患者は邪魔であり、定量化できる成果としての物理的データだけを追いがちになります。生物学的、生理学的にどれだけ生かしたか、どこまで長らえさせたかということが医師にとっての成績であり、よりよく最期を迎えさせるなどということは一文にもならないこと、これがこれまでの現代医学のありかたといえます。しかしこれは、決して人間を診る医療ではあり得ません。生物体を観るだけの、ある意味無機的な医療といえます。
帯津三敬病院では、気功教室もあれば、ホメオパシーなどの代替療法も積極的におこなっています。また、治療方針は患者自身が決めていくようになっています。実に画期的な方法を採用した医療施設といえますし、なによりも患者さんにとって、病院での生活が甲斐あるものとなりましょう。
帯津氏はこの本のなかで、死とはどのようなものか、生きる意味とはどのようなものか、その本質についても彼の考えをわかりやすく述べており、その哲学は病院の運営にも反映されているといえましょう。そしてそれは、そのまま私たち自身のこととしても大きく迫ってきます。
副題に、「いつでも死ねる生きかたのすすめ」とあります。そのような生きかたができることこそが幸福といえるのではないでしょうか。

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KATAN DOLL
トレヴィル発行 \1648
天野可淡作



天野可淡という人形師がおりました。その創作人形は非常に独創的であり、以降、彼女の影響を受けた人形師が多く生まれました。
彼女がいったい誰の、どのような影響を受けて人形を作っていたのかわかりません。
80年代前半、私は第二回目となる個展にはじめて赴きました。オートバイで行ったため、皮ジャンパーを身につけていたのですが、お上品な人形の個展のなかではかなり浮いていたと思います。そのとき受付にいた、不思議な感じのするきれいな女性が話しかけてきて、いろいろと話しこんだのですが、内容がなかなかおだやかではありません。変な受付の姉さんだなと思ってたら、その方が天野可淡本人だと聞いてびっくりしました。それが最初の出会いでした。
それから毎回個展のたびに招待を受け、私はといえばむくつけき恰好で行き、可淡ワールドの空間のなかで、ともにさまざまなことを語りあいました。この上なく楽しいひとときでした。そうこうするうちにこの本が出版され、売行きもしごく好調で、続巻も発行されるほどでした。天野可淡という名はある意味、ビッグネームとなりました。
そして最後となる六本木の個展(彼女の作品の集大成)ですが、私は初日の閉館後の、業界関係者の集うレセプションに招待されていたにもかかわらず、もはや大勢の方たちが来るであろうことを考えて参加を見合わせ、そして別の日に行きました。しかし、そのときはいままで個展に行ったなかで、初めて彼女に会うことができませんでした。オートバイ事故で亡くなったのは、それからまもなくでした。私は知らせを聞いたとき、レセプションに行かなかったことを大変後悔しました。
きっと彼女は若くして、はや円熟してしまったのでしょう。そして天が彼女を望んだのではないか、そのように私は思えるのでした。

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病院で死ぬということ
文春文庫 \505
山崎章郎著



現代西洋医学はこれまで、日進月歩の勢いで発展してきました。それまで治療が不可能とされていた病も、数々が克服されました。そして近い未来、すべての病が制圧されるであろうことを、医師も市民も信じて疑わなかったのではないでしょうか。しかしながらどれだけ研究しても治せない病は依然として多く、また次々と新たなる難病も増え、いわゆる自然死や大往生によって逝く方は少なくなりました。このことはいきおい、病院で人生の最後を迎えるというのが一般的になることを意味します。
ところで現代医学には病を撃つ療法の他に、延命をはかる技術も発展しました。これはつまり、もはや手の打ちようのなくなった患者でも、あらゆる手をつくして一日でも長く生かそうとするということです。ときにそれは、数日から数週間、数ヶ月の先延ばしした命のため、非人間的な扱いを受けねばならないことがしばしばです。その、決して幸福ではない、むしろただ苦しく、むなしい日々のための苦しい延命措置ははたして必要なものでしょうか?この問いは、現代においては重大で、大切な意味を持っていることは間違いありません。ところが大勢の市民の側は、「どうせ自分にはむずかしい医学のことはわからない」から「医者にすべてをまかせておけばまちがいない」という発想から抜けきれずにいて、そのような局面に対峙したときにはじめて慌てるのです。
このようなことがらを問題提起として、著者は前半にいくつかのケーススタディを物語風に書いています。それは、胸が苦しくなるような内容の連続です。しかしながら、常に誰しもこのようなことは起こり得ることを、市民の側も肝に銘じておかねばなりません。
かくして、最終的に著者のこころざしたものがホスピスでした。けだし終末期医療というものが、それまで出会った末期患者たちから与えられた課題に対する回答なのではないかと、著者はそのように締めくくっています。

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アウト・オン・ア・リム
角川文庫 \838
シャーリー・マクレーン著



この本は、成功と名声に彩られた著名な女優が、真実を語るためにあえてみずから地位を失うかもしれない危険をおかし、目の当たりにした数々の神秘体験をつづったものです。霊媒師との交流、前世のこと、旅行のなかで起こった不思議な現象、それらが自分にもたらしたもの・・
大いなる存在、運命の糸にたぐられてそれらはゆっくりと、しかし確実に展開していきます。それと同時に薄皮をはぐようにゆっくりと、彼女は自分の内部でなにかが変化していくのを感じます。躊躇しては受け入れ、受け入れては躊躇します。理性では否定しようとするのですが、ハートは肯定しようとします。しばしば内面のアンビバレンツに引き裂かれます。そして、最終的に彼女は確信します。人生において起こることはすべて必要があってのことで、すべてはその人の成長のためであると。そして、神とは外界にあって崇め奉るものではなく、私たち誰でもの内にあって、その声を聴くことこそ大切なのだと。これはキューブラー・ロス博士をはじめ、いろいろな方面の方が言っていることに重なります。それだけ真実を含んでいるのでしょう。そのとき彼女は、自分のまわりが大きく開けてきたことに気づくのです。
私は、デイヴィッドは、シャーリーのために遣わされた使者のような気がしてなりません。

彼女の各著作は、地湧社からも発行されています。

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貧乏神髄
WAVE出版発行 \1400
川上卓也著



貧乏というのは、実は楽しいものなのです。この本を読んでいてそのように思いました。たとえば会社づとめをしたりしていると、またそれで多少なりとも偉くなったりしますと、まず責任が重くなる、自分の時間がなくなる、やる気のない部下も管理し、指導し、評価しなくてはならない、ときには辞めさせなければならなくなるかもしれない、それと保身のことしか考えない経営者や上司とのやりとりで疲労しなくてはならない、また常に自分が辞めさせられるかもしれないという不安とも戦わなくてはならない、それからなにより、それらストレスとの闘いが休むことなくずっと続くということになります。更にはヘタに社会的プライドが刺激されたりしますと、ウン十年ローンとか組んだりして、あとで自己破産するケースもあるようです。
ところが貧乏になりますと、これらがおよそご破算になります。心身ともに健全になります。サラリーマンは食事を作る時間も気力もない方がいるでしょうが、こちらはたきたてのホカホカごはんをかっこむことが可能なのです。豊かさということでは、比ではありません。
この著者には哲学があります。もちろん貧乏に関するものもあるのですが、なにより人生を楽しむといった、まさしくディレッタントやエピキュリアンの持つものを備えています。
また、モノを持たず消費も慎ましやかで、当然ゴミも少ない生活は、なによりエコロジカルです。地球に対して、後ろめたさを感じない生活が可能となってくるのです。彼の生活は、私の規範となっています。

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心を病むってどういうこと?
ぶどう社発行 \1300
古川奈津子



著者は精神分裂病と診断され、過去に治療を受けていたことがあります。この本の特徴は、実際にその病で苦しんだ経験のある人間が、内側からみつめて書いたものであるというところにあります。しかも、当然のことながら分析的ではなく、彼女の魂からの言葉が発されているため、いわゆる健常者とされている方が読んでも、ある程度は同じ地平に立って共感を得ることができるのです。
しかしながら、その苦しみというものは当人でなければ決して理解のできないものであることは肝に銘じておくべきと思われます。どうしても健常者の側からみると、なんでこんなことが、なんで気にしなくてもいいことを、なんでわざわざ・・・と、もどかしい思いをしてしまうのです。でも本人は、それができないから苦しんでいるのです。
救われるのは、彼女はそうであった自分をはずかしいとは思っていない(現在は寛解という状況にあります)ということと、病気になってよかったと思っていることです。それがあったからこそ、身悶える苦しみを経たからこそ得られた学びや気づきがあるということを理解し、それまでの自分を肯定することができたのです。それは、彼女が幸福へと一歩進んだ瞬間なのだと思いました。

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ひきこもりだった僕から
講談社発行 \1500
上山和樹著



ひきこもりという症状は、もしかしたらめずらしいのかもしれません。まだまだ少数派なのでしょう。しかしながら、ひきこもりたいという欲求を持っている方は多いのではないでしょうか。もしかしたらこの社会のなかで平然と人を切り、踏み台にし、厚顔にも自分は正しいと思っている方のほうが病気なのではないかと思うことがあります。
損な生きかた、といいますが、人はだれでも損をしないためにあがき、なんとか少なくとも、自分を人並みに置こうとするものです。ところがことごとくうまくいかなくなり、貧乏くじばかりを引いてしまうことがあります。この著者はまさにそのような典型でした。自分でも「人並み」という床を踏み外してしまったことを自覚し、どこかあきらめにも似た感情を抱き、ただ死ぬことだけが救われだとずっと思っていました。
それがあるとき、ひょんなきっかけで「ひきこもり」の問題に関する活動をやるようになり、そこでおそらくは生まれてはじめて自分のいるべき、またはおさまるべき場を得ました。そこには人とのつながりや絆があり、自分のやることを評価してくれる人々もあらわれたのです。
あるとき、彼はこんなことを言われます。「自分はサラリーマンをしているが、本当の意味での社会参加とは思えない、あなた(著者)のやっていることこそ本当の意味で社会に参与しているのではないか」。
この本は決してハッピーエンドで終わっているわけではなく、「死が最終的な解放」であるという姿勢は変わってはいません。しかしながら自分が期待されるものを持ち、そこになにかしらの可能性を感じることで歩みを前に進めている姿をそこに見ることができます。大切なのは、あるいは人との絆なのかもしれません。
私は、ここにもあるがまま生ききろうとしている姿をみるのです。

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わがいのち月明に燃ゆ
筑摩書房発行 
林尹夫(写真は1967年版)



副題には、一戦没学徒の手記とあります。学問をめざす学生だった著者が、兵役のあいだも勉学をおこたらず、その日記をつけていたものを書物にしたものです。彼は死の直前まで勉強を続けていたのですが、いったいどのような気持でやっていたのでしょうか。そして、死の予感が強圧的に覆ってくるなかで、その恐怖にいかに抗っていたのでしょうか。死ねばいまやっている勉強などなにもならないじゃないかと、私が最初この本を読んだときに抱いた素朴な疑問を思い起こします。
戦争という、あまりに大きな力が幾多の運命を吹き飛ばす状況のなかで、死ぬことを覚悟せざるを得なかった彼は、若くして自分の存在に意味を見いだすことを課せられたのだと思われます。そしてそれが、生きた証が、(誰がみとめなくとも)勉学だったのではないでしょうか。答えを先延ばしすることが許されぬ、一日一時間一分が勝負だったのではないでしょうか。
このようなことを現代的な感覚では、「辛気くさい」ということになるのでしょう。しかし、誰もが答えは出さなくてはならないのです。それがどれだけ先延ばしが許されるように思えても。


最後に彼は書いています。
「モスコー(モスクワ)の街をハンティングをかぶって散歩したり国際政治や国際経済の勉強、あるいは日本の進行方向を理論的に勉強していく生活を・・・もしも生あらばそれを実現させてみせる」
「この日記も夢のみ大きく、語らざる人間が、自己の大きな夢へ、渾身の努力をつくす過程の記録の第一篇たらしめてゆきたい」
これらのことがどれほどの途方もない憧憬であったか、私たちには永遠にわかりますまい。


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望郷と海
ちくま文庫
石原吉郎



石原吉郎さんは詩人でありましたが、彼はその胸のなかに、非常に重いものを背負い続けておりました。彼の生とは、まるでその負債を返すための生きざまであったように思われるのです。
太平洋戦争で日本は敗戦し、兵士たちのある者はシベリアへと抑留されました。そこではほとんど非人間的な強制労働がありました。フランクルの「夜と霧」にも比肩されましょう。
そのなかでは同胞ということは何の意味もなしません。つねに生き残るかそうでないかという運命の分かれ道のどちらかを歩まねばならない状況でした。つまり、ほんのわずかのあいだに日本兵同士で、被害者と加害者がめまぐるしく入れ替わるような惨状が続くのです。たとえば護送のときには我先と争って水を飲みます。何故ならば、なくなってしまっては大変ですから。しかしそこにはトイレなどありません。誰かのためにいちいち汽車が止まってくれるようなことがあろうはずもありません。かくして目的地に着くまで、兵士たちは汚わいに塗れたなかで寝泊りをします。また、徒歩での移動のときも一番危険な端の列へと弱い者を押しのけます。食事のときなど、殺気だつほどに真剣そのものです。
生きるための知恵は、他人にその知恵をわたさないこと、人間のこころを捨てること、つまり徹底して無関心になること、そしてなぐさみとして陰惨な諧謔を身につけることでした。
あるとき辺境でのこと、土地の農民に食物を与えられたことがありました。農民の女性たちは極限状態を生きてきた日本兵のやつれた姿や飢えて貪るように食べる姿を見て、涙を浮かべ、いたわるような、また哀れむような目で見ておりました。しかし兵士たちはなぜ彼女たちが泣いているか、まったく理解できなかったそうです。なぜなら、まごうかたなく彼らはそのとき、あたかも天国にいるほどに至福の状態にあったからです。
一度ニヒリズムの極北までたどりついてしまった人間が人間のこころを取り戻すことは、途方もないことです。ここにおいては体は回復しても、心は回復することは困難を極めます。

かくして、彼はその生涯をとじるまで、返還すべくもない負債を返し続けていたのでしょう。

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整体入門
ちくま書房発行 \600
野口晴哉著



昭和の天才療術師、野口晴哉が書いた整体の入門書です。
いま整体というと、なにやら骨をボキボキ鳴らすものというふうに思っている方が多いと思いますが、野口整体とはそのような即物的療法ではありません。
大本にあるのが、「気」の用いかたです。気を導くことで本人の自然治癒力を発揮させようとするいとなみともいえましょう。
かつて著者は、人々があまりに自分の整体に頼るようになってしまい、そのため自身の健康を省みることがなくなり、治療をおこなうことがかえって宜しくないと思うに到り、治療を捨てました。そして真の健康を増進するために、活元(自働運動)、そして愉気(気を送ること)を根底に据え、指導という形に方向転換を遂げたのです。また、人間が生きるなかで一定のパターン化する傾向のある体運動を12種に分け、これを「体癖」として確立し、本人が自分でできる体操も作りました。この本には気ということ、愉気、活元、体癖とその体操、その他整体操法がバラエティに富んで収録されています。
著者は関東大震災後にみずからの癒しの能力に目覚めました。皆が野口少年のところへ治療を請うために集ってくるのです。それから65歳で亡くなるまで、日に100人を数える人に整体をおこなってきました。それだけでも非常に数奇で稀有なる人生といえましょう。
著者が数々の臨床を経るなかで、他力による治療というものが、つまるところ本人の生命力を弱め、更なる庇い立てを必要とする悪循環に陥ってしまうのに気づいて治療を捨てたとき、また現代の医療のありかたに対する痛烈な批判にもなってほとばしりました。人間には自家用薬があるのに、なぜ代用薬にたよるのか、と。
そしてその主張は、なにもしなくともよい、ただ経過をつつがなくさせる、これが最善のありかたということにあり、著者はそのことを実存的に証明した、ただひとりの人だったかもしれません。起こることはからだに委ねるという、いのちを信頼する考えをすべての根底に据えたのです。
そして飽くなき人間観察と探求のなかから生み出された数々の発見は、細やかないのちの在りかた(体運動や体癖など)の記録の結晶となって我々に遺されることになったのです。


整体法、および野口晴哉についてさらに探求されたいという方は、全生社から出版されている著作集をあたられると宜しいと思います。

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名曲決定盤(上下)
中公文庫 上\781 \800
あらえびす著



これは、単なるクラシック名曲盤のカタログではありません。また、その用にも足りません。何故ならば、「銭形平次」の著者野村胡堂、すなわちあらえびす氏が亡くなったのは昭和38年という、もはや40年も前のことであり、彼がレコード収集していた時代も当然、SP盤からLP盤の初期に限られており、CDの出現など夢のまた夢にも出てこない時代なのです。では何故にこの本なのでしょう。
まずは著者の確かな審美眼があります。テクニックや表現を超え、演奏者の息吹や魂までも引き出すようなレコード評であるということです。また、それがために自身のプライベートも晒さねばならない場面もあります。あるいはこの評は、彼の生きかたそのものでもあるといってよいかもしれません。
また、テクニック的な知ったかぶりもなく、ただ自分の魂に響いてくるものをあるがまま紹介している姿勢が一貫します。つまりそこには彼の美学も透徹しているわけです。そして、なんといってもほとんどの演奏家の癖さえも耳に刻み込んだほどの常軌を逸脱した熱意。ただし間違ってならないのは、これはマゾヒスティックに収集し、ヒステリックに聴き続けたわけではなく、彼はどこまでも愉快に楽しんでいたのです。つまり、そのライフスタイルが彼の自然体だったということです。もちろん当時のこととして収集にかけた莫大な費用のことだとか、そのことについて夫人がいっさいの口出しをしなかったとか、尋常ならざる博識だとか、惜しげもなくレコードを人にあげていたとか、そういった、ある種ゴシップネタみたようなものはたくさんあるのですが、それら自体は大した問題ではありません。
この本を読む方は、真に精神の贅沢と人生を豊かにする愉楽の趣味というもの、そして(もしもどれだけのお金持ちの方であっても)、現在の生活のいかに貧しいことかを思い知ることとなりましょう。

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猟奇王
プレイガイドジャーナル社発行
川崎ゆきお著 \850(品切れ)



それがどんなにぶざまで時代遅れで滑稽であろうとも、信念をもって行動するロマンチストがいるものです。私は自身そうでありたいとずっと願ってまいりましたが、実際のところ、それは最早あやしいものです。
猟奇王とは、おのれの信ずるところがあまりに現代的感覚からずれてしまったため、リアルな世界からはみ出してしまった男です。そして猟奇とは、彼(のような人)が高揚に打ち震えつつ、ロマンを実現しようという行為のことをさすのです。もちろんこのロマンとは、ログハウスに住もうとか、豪勢な邸宅を建てようとかいう小市民的でいじましいものではなく、おそらくは彼猟奇王しか考えつかないしできない、奇想天外にして、しかも他の人間からみればまったく価値のないことなのです。しかしながらそのようなロマンの終局は、推して知るべしと申せましょう。
いまこのマンガを読んで、わがことの如く胸がしめつけられる思いをする方もおられることでしょう。

これは、マンガ専門の古本屋さんに足しげく通えば、いつか手に入るかもしれません。

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前世療法
PHP文庫 \562
ブライアン・ワイス著



これはある心理療法家が、催眠療法中、ふとしたことで患者を前世まで引き戻してしまい、その過去におけるトラウマを再現し、解放することで今生の問題を解決することになるという経緯を、こと細かに記した記録です。それだけではなく、催眠中には死後の世界のこと、そこにいるマスターたちの話も出てきます。そしてその内容は、私たちはどこからきて、どこへゆくのかという問いに答えるものであり、また、私たちはいかに、という問いにも明確に答えています。
ところで催眠中に見た前世においての経験は、それが事実であるかそうでないかという問題はさておき、素晴らしい効果があります。また、前世における経験を検証できるケースも当然出てくるわけですが、それらはほぼ合致していたということです。
しかしこれらをみていきますと、もしかしたら、いまある問題をすべて前世のせいにして現実から逃避してしまい、ただひとつ前世療法だけがすべてを解決できると判断する方も出てくるかもしれません。しかもこのような傾向は、その気になれば商売のカモとしては恰好の状況です。これは著者も懸念しているところです。
でも、これは実は考えかたが逆なのです。もしも前世療法のスピリチュアルな思想が正しいとすれば、むしろいまある問題にどのように接し、味わい、対応していくかということこそが重要なのです。そしてそれが魂の学びともなりましょう。
いくらすぐれた催眠療法家でも、本人にとって必要のないときは前世をみせることはできませんし、必要があるとすれば、催眠療法という技法を用いずとも、経験するときもあるでしょう。著者によりますと、むしろ似非ヒーラーのほうが多いとのことです。
大切なことは、操体法にしても整体法にしても、頭蓋仙骨療法、前世療法、またどのような療法にしても、これでなければ絶対に治すことはできないと考えることは、実はいのちに対する不遜であり、道を踏み外すおそれがあるということです。

この本の続編も、同じPHPから発行されています。

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時代の未明から来たるべきものへ
イザラ書房発行 \5000
間章著



間章(あいだあきら)はジャズの評論家ですが、この本を音楽評論の集成としてくくってしまうことは不可能です。何故ならば、この本を、ジャズファンをはじめ、あらゆる音楽に通じている方が読んだとしても、この著者と同じ地平に立たないかぎり、なにもわからないからです。
ジャズは被差別民族の、言ってみれば抵抗の音楽として発祥します。もちろんブルースもそうなのですが、特にジャズはコードの分解や崩壊、テンションのかけかたが従来の楽典を基礎とする音楽に否定の眼差しを向け、言葉を替えて言えば、伝統音楽に楔を打ち込むことで抑圧に対するルサンチマンを表現してきたといえましょう。
ディキシーランドジャズ、スイング、ビ・バップ、モダンジャズ、そして更にはハーモニーからリズムまで(音楽を成立させているそれらさえ抑圧の作用として)を打ち壊し、あらゆるものからの解放を謳ったフリージャズにまで変転しましたが、著者は特にフリージャズの評論集をこの著にまとめたのです。
ところがそれだけの話とはならず、実はこのフリーへの流れは現代思想の世界にも潮流としてうねっており、評論の内容においても現象学から実存主義、そしてニヒリズムまでを射程に置き、その文章作業は、彼独自のレジスタンス観を展開する作業でもありました。
このようにジャズにおけるフリー、思想におけるフリー、その極限の地平を求心的に表現した不可能性のあらわれという観点に立つことが、この本を理解する鍵となりましょう。なかでも「廃墟論」は秀逸です。
この本の初版は1982年に発行され、後に一度復刊されました。初版が貼函、再販は機械函となっております。


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禅とオートバイ修理技術
めるくまーる発行 \2800
ロバート・M・パーシグ著



私はこのタイトルに惹かれ、本を買ってしまいました。禅、オートバイのメンテナンス、それらはとてもつながりの深いものだということを、直感的に感じたからです。当時私はオートバイ(ヤマハ初代RZ250黒)に乗っていましたが、運転技術をはじめ、なにもかもが未熟でした。オートバイも戦後に比べると圧倒的に性能もよくなり、メンテナンスフリー化してまいりましたが、それでも最低限消耗品の交換はあります。エンジンオイル、ブレーキパッド、パッキンなど。また、ボルトが固着して回らないとき、あるいは次にどのようにしてパーツを外すかを思案するとき、これには智慧が必要となるのです。
これを生きることにあてはめてみますと、見事にシンクロします。禅は、その解決が困難と思われるときの智慧でもあるのです。ですから、私はオートバイによってとても多くの智慧を手に入れたと、いまでも思っています。この部分は、著者もまた同様であったことを確信するものです。
この本は、著者の魂の遍歴でもあり旅行記でもあり、アウトドアの本でもありモノローグでもあり、そして哲学の書でもあります。もちろん素朴にオートバイに乗ることの爽快さを著わしたものでもあります。もしかしたら、輪廻の本でもあるかもしれません。

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唯一者とその所有
現代思潮社発行 上\2000 下\3200
マックス・シュティルナー著



著者は、言ってみれば思想的アナーキストと表現できましょうか。対しまして政治的アナーキストにはウィリアム・ゴドウィンということになりましょう。他にもプルードンやバクーニン、クロポトキンなどいますが、シュティルナーの場合は政治色や運動色がないため、やはり特殊です。ちなみにかのダダイスト辻潤も、シュティルナーを敬愛しておりました。
ドイツ観念論の雄であったヘーゲルは、国家をあげてバックアップされた思想家でした。そのためキリスト教を保護する姿勢があったわけです。そのようなところから、ヘーゲル亡きあと、さまざまなところからキリスト教批判のベールを被ったヘーゲル批判が湧き起こりました。この一連の潮流のグループは、「ヘーゲル左派」と名づけられます。その仲間には、かのエンゲルスもいたそうです。そしてこのシュティルナーはそのなかでも、一番遠くへ行ってしまった人間でした。つまり、キリスト教のみならず、すべてを否定してしまったわけです。かくして、無関心と無感動の極北を表現した書物が誕生したのです。
彼はこの本によって世間に注目されることになります。マリーという女性と結婚し、作家としてひとりだちしようと目論んでも、それはあながち無謀なこととも思えなかったのでしょう。ところがほどもなく、彼は世間から忘れ去られてしまいます。彼がどうあがいても、再浮上する気配はありません。そこで今度はマリーの財産を使って商売を始めようとしました。しかしながら、まったく世事に疎い彼はそれにも失敗し、マリーとも別れることになります。あとはそのまま凋落の一途をたどるのみです。そして最期は誰にも看取られず、安アパートの一室で息絶えていたそうです。後に年老いたマリーにシュティルナーのことを尋ねると、「あれはずるい男だった」と繰り返すのみだったといいます。

ひとつつけ加えますと、ヘーゲル批判の極であるこの本の構成は、まさにヘーゲルの弁証法の手法を用いております。

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フランケンシュタイン
創元推理文庫 
メアリ・シェリー著



フランス革命が起こったとき、文化人をふくめた多くの民衆が感動し、高揚しました。そしてヨーロッパ各地にもさまざまな形で気運が拡がりました。
革命によって触発され、一気に書き上げた「政治的正義」の著書の成功でウィリアム・ゴドウィンは気をよくし、メアリ・ウルストンクラフトという女権運動家と結婚し、さっそうと政治思想家としてスタートをします。しかしほどもなく群集は暴徒と化し、マリー・アントワネットをはじめ、多くの人間を断頭台に送りました。このことから、フランス革命はその血生臭さによって次第に恥辱とみなされるようになり、ゴドウィンもそれにともなって民衆から忘れられ、次第に落ちぶれてゆきます。そもそも彼の著作は結婚制度には真っ向から反対するなど、非常にエキセントリックで理想主義的なものだったのです。はなから書いたこととやっていることの整合性がありません。また、メアリとの間には女の子が生まれましたが、それがもとでメアリは亡くなってしまいます。
ゴドウィンは、子供を連れていろいろと住処を変えながら名声を取り戻そうと奮起しますが、功を奏することはありませんでした。最後は管理人の職で食いつないでいた状態でした。彼は皮相にも結局、自分の著書に書いた内容に離反するような生きかたしかできなかったのです。つまり彼の生涯は、みずから生み落とした書物の不可能性を実証する以外のものではなかったのです。

何故にこのように長々とゴドウィンのことを書いてきたかといいますと、それは、フランケンシュタイン博士は怪物に命を与えるという、摂理を超えた業を成し遂げます。怪物は実はとても繊細で優しい心を持っていたのですが、そのみにくい姿ゆえに人々に受け入れられず、苦悩します。博士もやがては怪物を作ったことを後悔し、最後には自分の命とひきかえに殺そうと決心します。つまりフランケンシュタイン博士もゴドウィンと同様、自分の生んだものの不可能性に引き裂かれてしまうのです。

著者メアリ・シェリーはゴドウィンとメアリ・ウルストンクラフトとの間にできた娘であり、「フランケンシュタイン」は、ゴドウィンが彷徨していたとき、パーシー・ビッシュ・シェリーと出会い、創作を勧められて18歳のときに書いた物語なのです。

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独りだけのウイルダーネス
創元推理文庫
リチャード・ブローンネク著



これはアラスカのまごうかたなきウイルダネスのなかで、独り大自然のなかで生きた男の記録です。
家となる丸太小屋からなにから、すべて自身のみの手作りです。しかも、彼がその過酷な自然のなかに入り込んだのは、著者がすでに齢50を越えたときでした。
それらしきことは記されてはいますが、動機そのものははっきりとはわかりません。ただひとつ言えるのは、彼は悲壮な決意をして山ごもりしたわけでは決してないということです。つまり、彼はそこでの生活を最大限楽しみ、行動するすべてに無理がなく、かの地の豊饒を享受していたのです。

ここで思い起こすのが、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの「森の生活」という名著ですが、それは徹底した文明批判が根底にあり、反逆行動としてのウイルダネス参与だったわけです。それに比べ、こちらのほうはより自然体であり、自然の生活それ自体が魅力あることだから行動に移したという風情です。
これは日記を編んだものなので、その筆致は淡々としていますが、こころ安らぎ、ゆったりとした気持になる本です。
また、アウトドアの好きな方にとっては、垂涎の生活でしょう。

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癌が消えた
新潮文庫 \680
キャロル・ハーシュバグ他著



現代医学をはじめ、あらゆる療法の宿敵ともいえる癌ですが、技術の粋を尽くして、最大限の注意をもって治療をしても治すのは非常に困難であるかと思えば、非常に稀にですが、なにもせずにほったらかしておいて消えてしまうこともあり、恐ろしくまた、つかみどころのない病といえましょう。
どなたにとっても脅威であるこの癌が、奇跡としか思えないような寛解を遂げたケースを集めたのがこの本です。
特に末期癌や転移性の癌に対しては、現代医学もなすすべを持ちません。ということは治療が癌を退縮させたのではなく、他ならぬ本人のこととして自然になくなっていったということです。癌が、個別の病気と言われるのはそのためです。
本人が自然治癒力を発揮し、癌を消すケースについてですが、それはなによりこころの側面が重要になります。これを応用したものにイメージ療法などがあります。これは、みずからのからだのなかのマクロファージやリンパ球が、癌細胞を食べてしまうことなどを想像しておこなうものです。またそれとは別に、それまでどこか無理して生きてきたのが、本来の自分に戻り、いのちとして調和したときなどです。前者は療法としておこなわれ、後者は自然になされることが多いようです。いずれにせよ、こころの在りかたによってからだが変わり、癌の寛解をもたらしたのです。
他方の極としては、発熱によるものがあります。高熱を出すことによって癌がなくなってしまうケースです。ときには頭蓋のなかの腫瘍が、鼻血としてどっと出てきたことによってなくなることもあります。


「健康指導のしおり」でも申しましたように、発熱は生体の良能であることが多く、熱が出ることによって体液の流れが活性化します。これはまさしく癌の存在を脅かすものです。また癌は細胞ではなく、病変した赤血球という説もあります。これらを鑑みますと、細胞としてあったものが消えることの不可思議も、恐ろしい勢いで増えることも、容易に転移することも、また、からだから鼻血などの出血によって排出されることも合点がゆくのではないでしょうか。ちなみに、臓器のなかでただひとつ心臓だけが、癌にはかかりません。
これは医療にかかわる方は、ぜひ読んでいていただきたい本です。

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ダンディズム覚え書き
近代文芸社発行 \1165
堀洋一著



稀代のダンディ、イギリスのジョージ・ブライアン・ブランメルの評伝を著わした著者が、つねづねこころの奥にひそめておいた、ダンディというものの本当のありかたを遺憾なく著わした書であります。
現在のファッションのありかたとは、ただブランドに舞い踊り、異性にアピールし、また見栄のための無駄に華美な装飾がむなしく空回りしている状況に過ぎません。けだしモードとは制御装置であり、暗黙のリーダーなるものが支配しているものです。ですから要は、ファッションとはファッショ(専制)なのです。そして現在巷にて呼ばれるダンディとは、もっとも低い次元での表面的なことを呈す以上のものではないといえましょう。もしもこのような付和雷同の地平に楔を穿ち、高貴で典雅、高慢にして冷徹な、至高の精神をみがきあげることをこころざす方がおられるならば、この本は必読でありましょう。
かのシャルル・ボードレールは、「ダンディという言葉のなかには、洗練を尽くした性格と、この世界の精神的機構全体に対する或る精妙な理解とが含まれている」と述べています。

冒頭に紹介しました評伝とは「ボウ・ブランメル」(牧神社発行)という書物なのですが、これこそは貴族的性格を有する方には多くの恵みをもたらしましょう。ただし本としては数奇な運命をたどり、現在では入手は困難と思われます。その装丁は素晴らしく、特に貼函は秀逸です。惜しむらくは本文印刷の余白のときかたにやや難があります。

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サロメ
奢覇都館発行 \4000 (品切れ)
オスカー・ワイルド著



あまりに有名な「サロメ」ですが、これは一般に流通している文庫本とはまったく異なるものと言って差し支えないと思われます。
翻訳の日夏耿之介は、ことのほかこのサロメにはこだわり、生涯を通じ、手直ししていたと聞きます。それだけ想像を逸脱するほどの執念を持ち、練りに練られたライフワーク作品として愛で続けられたサロメは、かくしてこれ以上手の加えようのない、円熟の極みの味わいを持ったものとなりました。これは希に見る、翻訳が原作を超えたと言い切れる作品と申せましょう。
実際のサロメの元本では、オーブリ・ビアズレーの挿絵を採用していたようですが、これは敢えてアラステアのものを用い、これもまた深い雅味を醸しており、ため息の出るような出来となっております。製本上の特徴としては、天金を施してあります。
低俗と量産の時代に反逆し、贅と嗜みをほどよくマッチさせた手法を、書物の本来あるべき姿としての英国の書物工芸の世界に見いだし、一貫した姿勢でこの版元は作り続けてきました。
その先人としては、ケルムスコット・プレスを築いたウイリアム・モリス、日本であれば向日庵の寿岳文章などが挙げられましょう。

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アリス煉獄
村松書館発行 \800
窮野卿児著



幻想文学というジャンルはおよそ広範で、つかみ難いものがあります。
近世以降ですと思い起こされるのはドイツ・ゴシックロマンのETA・ホフマン、フランスゴシックのシャルル・ゴーティエ、世紀末の退廃文化のなかですとフランスではボードレール、ロートレアモン、JK・ユイスマンス、ヴィリエ・ド・リラダン、イギリスでオスカー・ワイルド、オーブリ・ビアズレー、アメリカでアラン・ポーでしょうか。二十世紀に入ってからはアンドレ・ブルトンやルイ・アラゴン、そしてピエール・ド・マンディアルグなど。また、トールキンやCS・ルイスも入るでしょうか。また日本でも龍膽寺雄、中井英夫、泉鏡花、上田秋成などがいます。また、折口信夫の「死者の書」も非常に秀逸です。
しかしほとんど誰にも顧みられることのないもので、しかも比類なき幻想的濃密さを持った作品があります。私がおよそ知るなかで、贔屓目なしに選んでももっとも幻想的な文学といえば、この「アリス煉獄」しかありません。
これは非常に短い短編が2編なのですが、読み始めてすぐに特異な世界に引き込まれます。文章が巧みであるとかそういったこととは次元が異なり、為すところのままの結果としての出来栄えのごとくに思われます。いわば神の手を通して自働的に筆記されたような風情を醸しているのです。
ちなみに、アリスはただの一度も出てきません。この表紙装丁やタイトルから、いわゆるロリータ趣味の方が購買した可能性はありますが、そういった意味では看板に偽りあり、または詐欺ともいえるかもしれません。しかし私のなかでは、この表題がなにやら必然であったような気がするのです。
これをお探しになろうとする方は、やはり幻想文学専門の古書店に足しげく通えば、存外見つかるかもしれません。

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