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整体ということ

整体の目的とは?

本来、人は生まれて(受胎して)から死ぬまでのプロセスのなかで、いかにその人らしさを発揮し、学ぶべきを学び、幸福に、豊かに生きるかが課題なのではないでしょうか。

幸福になるとは、他人を踏み台にしたり貶めたりすることによってなされるのではなく、さりとて、自分を犠牲にして利他のために生きることでもありません。
自分自身を大切にできない人が、他人を大切にすることはできません。
そしてまた、どんなに物質的に恵まれていても、ひとり孤独で幸福になれるものでもありません。

加うるに、おそらく「社会的な成功」と「幸福」とは、そのまま直結するものではないのではないでしょうか。
ある人は、「もしも失敗も挫折もなく、すべて順風満帆だったとしたら、ボクはこの人生でなにも学ばなかったことになるだろう」と言ってました。

大リーグへ行って契約金がウン十億円で稼ぐよりも、草野球の参加そのものの価値の方が高いこともありましょう。
世界新記録をたたき出すよりも、ふつうに歩くことができる方がはるかに尊いことです。
どんなに富も名声もあっても、自分自身を見失ってしまえば、道を踏み外してしまいます。
でも、なにか失敗をしても、それを活かせば成功への鍵となります。

からだもなにか異変があれば、どこかしらの違和感として警告のサインが送られてきますが、それと同じように、間違った方向へ生きようとしているときも、もうひとつの世界から「それは違うのではないか」というメッセージが送られてきます。
それが、成功を追うあまり、歪んだことをやっている人々に起こる逆境だったりするわけです。

こころを静かにし、魂の声を聴くことができれば、誰しもそうそう間違うことはないのでしょうけど、どうしてもこころが騒がしくなる刺激がたくさんある現代では、胸が痛むような出来事が多くなります。

もういちど最初に戻ってみます。
「生まれてから死ぬまでのプロセスのなかで、いかにその人らしさを発揮し、学ぶべきを学び、幸福に、豊かに生き切るるかが課題」なのだとすれば、整体する者がなすべきことは、いかにそのプロセスをスムーズにするかということに尽きるのかもしれません。

痛みも病気も、それがなければ幸福になれるかもしれない。
そんなとき、治療をすべき対象となります。
ところが逆に、それを活かすことでさらに健康になれることもありましょう。
もしかしたら治療という行為が、プロセスを妨げることだってあるのかもしれません。

そのためか野口晴哉は、治療そのものを捨てることになります。
これは、本人その人なりのプロセスを、スムーズにする道筋を指導することが本筋で、治療は元来副次的なものという悟りを得たからではないかと思えます。

ひるがえって個別の私を考えてみますと、おこなっているのは治療がメインと言えましょう。
正面切って指導などということは、まだまだできる域までは行っておりません。
治療技術だけがいたずらに膨らみ、自分自身の精神は未だ未熟なままではないだろうか。
ただし整体とは、痛み取りや歪み治し、あるいは病気治しであったりする以前に、もっと広い視野で「生きる」ことそのものであるという立処だけは礎としておかねばならないと思っています。

生まれる以前、死んだ後のこと

人が持って生まれた素質、その人らしさ、その人生で学ぶべき内容などについて、大昔から多くの人々によって考えられてきました。
「体癖」なども、そのひとつでしょう。

しかし持って生まれたもの、それはいかようにしてはぐくまれてこの世に出でるのか。
また、その人生での役割を終えたあと、その人の魂はどうなるのか。
これについては諸説紛々としてますし、精神世界などではかまびすしく喧伝されていますが、証明するものはいっさいありませんし、また敢えて言えば、証明する必要もないものなのかもしれません。

ただ生まれる以前にいたところ、そして死んだ後に訪れるところというのは、なにか大本とでもいうべき地平ではないかと思っています。
そこは遠い遠い世界かといいますとそうでもなく、あるいは日常のなかにもフッとしたときに感じられるなつかしさのなかに、深淵をのぞき込むような不思議な感覚によって得られることがあるのかもしれません。
ヒョッとしたら、大本の世界というのは、遍在しているものなのかもしれないなァと思うのです。

大本への感覚、もしかしたらこれを宇宙意識と言うのかもしれません。