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愉和の整体=愉和法は、整体なのか

刺激はからだを変えない

整体のイメージといいますと、外から押したりほぐしたり、またはボキッと骨を動かすようなものが多いと思います。

でもどうでしょう、それでコリはほぐれるでしょうか?
また、バランスが整うでしょうか?
大方は変わらない、もしくは余計におかしくなったりしないでしょうか?

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愉和の整体=愉和法は、他の整体(手技)療法とは180度、趣きを異にしています。
それは、からだに対して押す、揉む、矯正するなどの刺激をいっさい、与えないからです。
逆に、クライアントさんのからだがおのずと、自然によくなってゆくのを見届け、確認するだけの作業と言えましょう。

ですので愉和法を、整体と呼ぶべきなのかどうか、悩むところでもあります。

刺激によって、からだは変わりません。
むしろ、押されたりし続ければ、「適応」といって、刺激に耐えようとしてからだは硬くなってゆきます。

硬くなったからだをさらにほぐそうとしますと、また、より大きな刺激が必要となります。
そのようなスパイラルに入りますと、操者も受け手も余計な力を使うこととなり、結果として、一緒にからだをこわばらせる方向に行ってしまいます。

また、からだをひねったりしてボキッと骨を矯正し続けますと、からだは鈍くなり、やがてはヘタをすると毀れてゆきます。

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治療の世界を俯瞰してみますと、整体をはじめ、どの療法でも、刺激を与えて治そうとします。
医学の世界でも同じですよネ。

熱が上がれば下げる、血圧が上がれば下げる、ホルモンが足りなければ補充する・・
起こっている症状の奥にある本当の声に耳を傾けることなく、ただ正常値に向かって帳尻を合わせようとする逆療法のオンパレードです。

熱は上がりきれば自然に下がります。
血圧も、必要があって高くなっているかもしれません。

抗生物質がウイルスを殺すのであれば、免疫細胞は働く機会を失います。
ホルモンが外から入ってくれば、からだはそのホルモンを分泌するモチベーションを失います。

つまり、刺激はからだを治すわけではないのです。
いや、ときによって一見は治ったように見えるようになるかもしれません。
しかしその本質は、問題を先送りし、生命力を弱らせているのかもしれません。

治すのではなく、治る

では病気になったからだをどうやって治療すればよいのか。

病気や症状が出るようになるには、原因があります。
西洋医学も東洋医学も、また整体などの手技療法も、ともすれば病気や症状を見るばかりで、本当の原因にアプローチすることは少ないように思えます。

たとえば腰が痛い。
腰だけをどうにかしようとします。

狭心症になった。
ニトロスプレーで発作を抑えます。

気管支炎やぜんそく。
気管支拡張剤でしのごうとします。

頭痛。
投薬で頭痛の起こる中枢に働きかけます。

まだまだ枚挙に暇はありませんが、問題の本質に目を向けていないのではないか、と言わざるを得ません。

愉和では、どの病気や症状にも、本質的な原因があるとみます。

腰痛であれば、どこからテンションがかかっているか、足からなのか、腕からなのか、あるいは頭部からなのか。

狭心症であれば、からだの左側のどこから胸に圧迫が来ているか。

気管支炎やぜんそくであれば、頭部のこわばりから来ていないか、また腕の詰まりから来ていないか。

頭痛であれば、足の趾に詰まりがないか。
かくのごとく、精細な観察が成されます。

この、観察によって本質的な原因がわかれば、そこを調整することで、どれだけスムーズに、しかも副作用なく治癒することでしょう。
更に、自分自身の治癒力で治癒しますので、治療を通して、よりからだは彊(つよ)く、感受性が豊かになります。

からだは、他力で治すべきものではありません。
治すのではなく、治るのです。
愉和法とは、そのように導くための手法以外のものではありません。

愉和法は、からだにさわらない

ではいかにして、治るように導く(施術する)のか。

もともとは、手を当てるのみの手法でした。
しかし現在はほぼ、触れさえもしません。

このような施術は物理的に考えれば、一切の刺激が起こりようハズがなく、からだになにか作用するようには思えません。

ところが、たとえばこれまでやっていた「手を当てる」という手法で言いますと、これがピタッとする箇所に当てますと、からだの方で勝手に、自然に(自働的に)変わってゆきます。
つまりご案内のごとく、刺激によってからだは治癒へと向かうわけではないということです。

しかもこれを、手を当てるという行為すらせずにやってみますと、不思議なのですがより雑味が取れ、通りやすくなるのです。

こういった行為を「気を送る」と表現しても一向に構わないのですが、私は一切の気合いも入れず、一切のエネルギーも使いません。
ですから、一般にイメージされている「気の療法」とはおそらくまったく異なるでしょう。

おそらく、からだはいつも良くなりたいと思っているのです。
ですので、からだの要求感覚のある箇所に意識をフォーカスして(操法して)あげますと、そこには気持ちのよさが生まれ、からだは自発的に望む方へと変わってゆき、かくして拘縮がほどけていく作用が生まれ、問題の本質が解決してゆき、もって治癒がなされるという結果となるわけです。

おそらく愉和法という操法は、直接肉体にだけではなく、「生命のエネルギー磁場」そのものへとアプローチしているというふうに考えるとよいのだと思います。

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