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三、 整体操法の実際

観察をする(からだの流れを読む)

では、実際の操法についてくわしく書いてみましょう。

この手法における整体操法とは、「観察」と「操法」のふたつによって成り立ちます。
逆にいえば、掛け値なしにそれだけです。

とりわけ、観察が重要です。
何故ならば、観察がなければ操法もないからです。
観察をすることによって、操法の箇所が決まってくるのです。

† † † 

観察の実際の様相についてですが、これは「手を当てて流れを読む(流れている方向を感じる)」ということに終始します。

具体的にはまず、操者は受け手のからだのどこか、任意の箇所に手を当てます。
このとき、操者のからだは力が抜けて安定し、観察をする手も安定している状態が望ましいです。
支えがあっても構いません(ヒザや床など)。

観察する手は、触れているか触れてないかわからないくらい、あるいは紙一枚を隔てたくらいの状態で、受け手のからだに当てます。
そうしますと、そこにはあたかもベルトコンベアーがあるがごとく、流れを感じることができます。

これは、繊細な感覚が必要とされます。
とはいえ、決して特殊な能力ではありません、誰でもわかります。

流れの速度は一定で、だいたい秒速5ミリ前後ほどかと思われます。
これは、どのからだでも、どこの部位でも同じです。

観察をするときのイメージとしては、鼻息荒く宝探しに行くような感じではなく、むしろ瞑目して、対象から一歩引くような風情がよいでしょう。

流れを読む(感じる)こと自体は、繊細ではありますが、実は誰にとっても決して難しいものではありません。
しかし、それを厭くことなく繰り返すことのできる根気こそが、なにより大切なこととなります。
整体操法の観察とは、この「流れを読む」ことの積み重ねに他なりません。

では以下に、「整体操法における観察」の詳細を、余すところなくご説明いたします。

† † † 

どこのどの病気、症状であっても、基本はまず最初にこの8ヶ所の流れを診ます。
これでおおよそのからだ全体の流れがみえてきます。

上から①首筋、②脊柱(せきちゅう)起立筋(きりつきん)(背スジ)、③大腿部(だいたいぶ)(太もも)裏、④ふくらはぎ。
左右ありますので、全部で8カ所。

図の青線の8カ所の部分です。

† † † 

これを観るのには、最初に患者さんに仰向けになってもらいます。
そして操者は、そっと手を背中なり、太ももなりの下に滑り込ませ、それで「流れ」を感じます。

なぜ仰向けか、といいますと、できるだけ患者さんの力が抜けている状態が望ましいからです。

力が抜けていた方が、正確な「流れ」を観察できるのです。

ただし、もちろんなかには仰向けが辛い患者さんも、あります。
その場合は、ご本人にとっていちばんラクな格好で寝てもらいます。

そしてその状態で、観察をおこないます。

† † † 

さて、ではなぜ、「どこのどの病気、症状」でも、この全身8箇所の「流れ」を観察しなければならないのでしょうか?
それはなぜかといいますと、ご案内のとおり、その原因は離れたところから来ていることが多いからです。

ではいったい何故、どうやって遠いところからやってきて病気や症状を引き起こすのか、なんでそんなわざわざメンドクサイことになっているのか・・

ということでまずは、ふたつほど例を挙げてみましょう。


症例 腰全体が痛い

たとえば腰全体が痛いという患者さんが見えたとして、観察の結果、その方の流れが図のようだったとします。

図では、上から下へと流れています。
ということは、その方の原因は矢印の発進元よりも上、つまりはアタマにある、と、みることができるワケです。

図に従いますと、頭部が骨盤にテンションをかけ(要は骨盤を上方に引っ張って)、腰全体に圧迫をかけている、このように示しています。

† † † 

ときに、なぜ「こわばり」や「詰まり」が別の場所を引っ張るのでしょう?

「こわばる」、あるいは「詰まる」ということは、要は単純に「硬く、縮こまる」ということです。
つまり、縮こまった分、他を引っ張る(テンションをかける)わけです。
こうして、頭部から背骨や背スジを通して腰を引っ張るという構造バランスができあがることになります。

つまりこの患者さんの場合、症状は腰痛だけれども原因はアタマにあり、そのため操法の対象は、まさに頭部となります。
アタマを操法することによって、腰痛はなくなります。

要は、頭部のこわばりが操法をおこなうことによりほどけることによって、アタマにとっては骨盤を引っ張る必要がなくなり、それによって腰痛もなくなるというワケです。
立場を換えて言いますと、アタマから引っ張られ続けていた骨盤が、引っ張られなくなったことによって、腰への圧迫がなくなるという具合です。

もうおわかりかと思いますがこの方の場合、アタマが変わらないと、腰痛はよくなりません。
どれだけ腰をいじっても、根本的恢復は望めないのです。

† † † 

  「ああ?またヘンなこと言ってる~・・」
  「そんなもん、オレはゼッタイ信用しないネ!」

わはは、そうでしょうねェ。
最初は、そう思われると思います。
あらら、ギワクの白い眼差しも、そこはかとなく感じてきますが・・

や、まずはそれでいいのです、アタマから腰痛なんて、聞いたこともないでしょう。
でも、とりあえずはそんなコトもあるんかいナ~、くらいに思っててください。


症例 頭痛

さきほどは、アタマが原因の腰痛でした。
さて今度は当のアタマの問題、頭痛をみてみましょう。

たとえば頭痛のヒドい患者さんが見えたとします。
そして、その流れは図のようだったとします。

んん? 図では、流れは下から上へと向かっています。
だとしますと、今度はその原因はどこでしょう?

その図に素直に従ってみますと、まごうかたなく足先から来ている・・、と推測せざるを得ません。

  「ええっ?! 頭痛なのになんでアシ? ゼッタイおかしいジャン!」
  「もーいい加減にしてヨ!!」

はいはい、お怒りはゴモットモでございます。
かさねがさねスミマセン・・
でもそれでも・・、流れは真実を示しているもんなンです。

ためしに足を操法してみましょう。
そうしますとあら不思議、頭痛はなくなります。

一体ゼンタイ、なぜでしょう?
それは、何度も申し上げていますとおり、患部と原因は離れているからなのですヨ。

ジツは足先の詰まりが、ピン!と上までテンションをかけ、頭部をキュッと締めつけていたわけです。

この方の場合もさきほど同様、足という本丸を調整しなければ、頭痛は治まることはありません。
大本の原因が変わらない以上、ずっと頭痛薬とはお友達ということになってしまいます。

逆に、足を正せば頭痛はスンナリなくなるでしょう。
からだとは、そういうものなのです。

† † † 

このように、「流れ」を読んで(からだを観察して)、病気や症状の本当の原因を特定するわけです。
ある意味、真犯人を追い込む探偵のような作業と言えましょう。

ちなみに、同じ病気・症状であっても、原因となっている構造バランスは個別のからだによって変わってきますので、操法のつど、観察は必要です。
一個わかったらあとはすべて同じだったらいいのですが、世の中そこまでは甘くなく・・

† † † 

ここまで読んでいただいて、おそらくいままで見たことも聞いたこともないような内容の連続に、ちょっと(大きく?)戸惑う方もあるかもしれません。
当然です、誰も言ったことはないのですから。

誰も言ったこともないし、誰もやってこなかった、だから病気や症状がよくならなくて皆苦しんできたのです。

これまで疑うこともなく信じていた常識を、ちょっとだけアタマから外してみてください。
そうしたら、いろいろなことがらに関して、目からウロコ現象が生じると思います。

ということで、いましばし「流れ」のお話に、おつきあいください。


流れを追う

「流れ」とは、からだのなかに水、あるいはジェルを流し込むようなイメージを抱いていただきますと、わかりやすいかと思います。

※からだの中心(正中線)には分水嶺(ぶんすいれい)(ついたてのようなイメージで結構です)がありますので、逆側にはあまり行きませんが、ときには鎖骨や骨盤、アタマ等を通して逆側に行くケースもあります。

このとき、同側(たとえば右なら右、左なら左)の流れは、バッティングはしないと考えてください。

分岐は、あります。
ちなみに分岐点は、調整点でもあります(流れの発進元であるため)
例の8箇所の流れの観察ポイントで言いますと、「頭←肩←腰→ヒザ→足」はありますし、「頭←肩→腰→ヒザ→足」もあります。

しかし、バッティングはありません。
「頭→肩→腰←ヒザ←足」や「頭→肩←腰←ヒザ←足」はないのです。

たとえば頭からと足から、同時に流しているとします。
仮に、頭からが10の勢いで、足からが7の勢いで流し続けるとします。

流れはどこかでバッティングしますが、そのバッティングがいつまでも存在することはありません。
最終的には、「頭から足まで3の勢いの流れ」に落ち着くからです。

仮に、もしも流れにバッティングがあったとしますと、それは観察を誤ったと思ってください。

† † † 

では具体的に、どのようにして流れを追えばよいのでしょうか。

前出の事項を読んでいただいて、なんとなくは理解していただけているのではないかとは思いますが、いまいちど細かい説明をしたいと思います。

流れを矢印で表現しておりますが、たとえば「↑」とういうような流れがあるとしますと、これの下側・矢印の発生側に問題(矢印を発生させる原因)があると考えられます。

ただし、まだその矢印の下側にさらに、「↑」の流れがあるとしますと、まだ下側の先に問題があると推測されます。
そのようにして矢印を追い、矢印の最初の発進箇所を探すわけです。

† † † 

ここで流れを追う際の注意事項ですが、頭をあいだに挟んでも、流れは途切れません。
たとえば左の首スジの流れが上から下(↓)になっているとすると、頭部が発進箇所とも思えますが、そのように見なすのは、まだ早計です。

もしも逆側の右の首が下から上(↑)だとしますと、左の首の矢印には、まだ先があるということになるのです。

図を参照してみてください。

いままで見たことのない流れですが、左側の首が上から下(↓)、右側の首が下から上(↑)になっています。

この図の肩から首、頭のラインをムリくり直線にしてみますと、次の図のようになります。

単調な黒線と青線のみになりましたが、図の青い矢印と矢印のあいだに、頭があったわけです。
そうしますと、からだの右側に、まだ先の流れが潜んでいる可能性があるのがおわかりになっていただけるかと思います。
流れは、アタマをも超えるのです・・

では、「流れ」の源流を辿る旅を、もう少し続けましょう。

† † † 

たとえば、次に示す図のような流れがあったとしましょう(からだを表にしていますが、例の8カ所のポイントだと思ってください)。

右の首の流れだけが下から上になっていますね。

単純に上から下、下から上だったらわかりやすいのですけど、右図のような場合もあります。

図を見て、流れの源流(最初の発進箇所)はどこかおわかりになりますか?
ちなみにアタマからでもアシからでもないのは、おわかりいただけるかと思います。
ではどこから発しているでしょう。

  「これじゃァ、わからん!」

と思ったアナタ、大正解です。

ハイ、現在の時点では、まだ流れの源流(最初の発進箇所)はハッキリとはしていないのが実情ですよネ。
見るかぎりでは、右腕や右肩から流れが出ていることを想定しなければ、流れの発進箇所は解明されません。
そこで新たに、右腕の流れを観るわけです。

右腕の流れが先っぽから肩へと流れているか(この場合は手先が発進箇所になります; 手先→肘→肩→ )、逆に肩から先っぽへと流れているか(この場合の発進箇所は肩になります; 手先←肘←肩→ )、もしくは肘から分岐しているか(この場合は肘が発進箇所になります; 手先←肘→肩→ )で、最初の発進箇所は変わってきますし、操法するべき箇所も、まったく違ってきます。

† † † 

ということで右側の上腕(肩から肘までの部分)、前腕(肘から手首までの部分)の2箇所も観察した結果、次の図のようになったとします。

これで、発生源は、より明確になってきました。
右手の手先からということになります。
ただし細かくいえば、その先が、まだありますよネ。

そうです、右手の指がまだ、あります。
そこで、指までを観察してみます。

そうしますと、右手の小指の第一関節へと辿り着きました。
これで、流れの最初の発進元が見つかったわけです。

この流れを、できるだけ一直線に表現してみますと、次の図のようになります。


右手小指から発する、自然の法則に従った流れが表現されているのがおわかりになると思います。

右手小指から水、あるいはジェルを流し込むことを想像してみてください。

ひとつは手を通って肩を経由して右首、アタマまで流れていきますよネ。
そしてもうひとつ、右肩から流れが別れて胸やお腹、右足の方までも流れていくラインがあります。
このふたつが、メインのラインとなります。

さらに言えばアタマを経由して逆側(左側)の方へ行って、左はアタマから下へと流れるラインも生じます。

要はこの青線のライン上に、強弱はあれど、なにかしらテンションがかかっていると考えてよいということになります。
そのなかのどこに一番強くかかっているかで、病名や症状名が変わってくるというわけです。

ほぼほぼこれで、流れの最初の発進箇所の探し方がおわかりになっていただけたのではないでしょうか。

† † † 

たとえばその患者さんがメニエール病だったとします。
そうしますと、その患者さんの状態(構造バランス)は、右手小指に、(仮に)過去に突き指などがあり、第一関節が詰まって、そのこわばりから腕のスジ、首スジまでが引っ張られ、それが右耳にまで及び、右三半規管(さんはんきかん)へとテンションがかかっていた、とみることができるわけです。

※三半規管とは平衡感覚を司る器官で、めまいなどの症状の原因となります。

図をご覧いただきますと、右手小指から右耳までかかっているテンションが、一目瞭然ですね。

ということはこの患者さんの場合、操法すべきは耳云々ではなく、まさに右手小指第一関節であり、そこが変わらないと右耳へとかかったテンションも解除されず、決してメニエールもよくならない、ということになってしまうわけです。

なぜメニエールなのに、右手小指なのか?
ここまで読んでいただいた方でしたら、もう腑に落ちているのではないでしょうか。

  「そういうふうに言われてみれば、なんとなくそんな気もしないではないケド・・」
  「でもずいぶん、離れてるよネ~。」
  「ホントにそんなん、あるんかなァ・・?」

  「フフ、フ、腑に落ちろという方がムリ!」
  「だって、だって、どうやったって手と耳は結びつかないし・・」
  「オイラを引っかけようったって、どっこいそうはイカの〇〇〇〇だゼ!」

んん~・・これだけご説明しても、まだまだ信じられないという感じでしょうか?
そーですか・・、まァそれはそれで致し方ありません。

では恐縮ですが、いましばし先まで読んでいただけますと幸いです・・。
・・いやいやお手数おかけ致します、ホントにすいませんねェ・・

† † † 

このようにして、からだ全体8箇所のポイントの流れから始まり、必要があれば他の細かな箇所も探り、最終的に矢印の最初の発進箇所までを辿ります。
そしてそこに、本丸(大本の原因)が潜んでいるわけです。
これが、観察です。

観察とはからだの流れを読み、大本の原因・流れの最初の発進箇所(源流)を探す作業であり、あるいはミステリー風に言いますと、真犯人、黒幕を探す作業といってよいでしょう。

千のマニュアルを覚えるよりも観察ができた方が、当然のように恢復のスピードも早く、ムダな手間も効率よく省けます。
なにより「治る」、「治らない」の結果が大きく違ってきます。

ひとつ注意しなければならないのは、この「流れ」というものは、整体操法をおこなうなかで変化もしてゆく、ということです。
どこかがゆるむと、流れがまた変化するのです。
しかしながらその都度、より奥の問題が出てきて、真犯人に近づくことができるわけです。

以上が、観察のキモとなります。

† † † 

ミステリーでもそうですが、意外と真犯人は、最も犯人らしくなかったりします。


操法をする

これまでご案内のように、観察をすることによって、操法をする箇所が特定されます。
その場所は、コリになっている場合もあれば、詰まっていたり、こわばっている場合もあります。

また、たとえば打撲などの外的衝撃が原因となっていることもあれば、そういうものがなくても問題の原因となっていることもあります。

さらに、硬くもなんともなく、当のご本人には、まったくなにも違和感のない状態であることもしばしばです。

様態はさまざまありますが、これを便宜的に、硬結(こうけつ)と呼ぶことにします。
操法とはざっくりと、硬結のほどき方と言ってよいでしょう。
実際に硬結というのは種々ありますが、ざっくりとコリだと思っていただければ結構です。

† † † 

まず硬結に片方の手を当てます。
こちらはからだからの反応や硬結の変化を感じるセンサーです。

もう片方の手を、センサーが一番よく反応する箇所に当てます。
こちらはセンサーが反応(感応)するためのハンドルとなります。

反応するというのは、ご本人のからだが、自主的に治癒への道を辿る行程を歩み始める布告と思っていただいてよいでしょう。

ハンドルというのは治癒へのハンドルであり、大仰にいえば、ある意味では運命のハンドルと言ってもよいのかもしれません。

† † † 

かくて双方、さわるかさわらないかくらいの圧で当てます。
先記の観察しているときと、手の当て方はまったく変わらないと思っていただいてよいでしょう。

摘要としては、以下のようになります。

1、 まちがいなく硬結をつかまえること。
2、 それと対応する一点をみつけること(固定した一点ではありません)。
3、 硬結の変化を感じること。
4、 ほどかれたのを確認すること。

硬結とは、硬く結ぶと書きます。
硬く結ばれたものを、さらに両側から引っ張ったって、細くはなっても、もっと硬くこじれます。
ですから硬結は、ほぐしてもほぐしても、ほぐれません。
ほぐすのではなく、ほぐれるように導いていくこと、これが大切です。
このためには、手をそっと当てているだけで充分です。

そしてそこには、ピタッとはまる位置、角度というものがあります。
これは、からだからの反応によって感じられます
すべて命と呼応して感応し、以てチューニングが合うようにする作業です。
これは、ただ感じればよいだけですので、難しいこともありません。

このとき、受け手の側には心地よさがあります。
この気持ちのよさは、とりもなおさず「からだの要求感覚を満たす」ということを意味します。
併せて同時に、からだは自分自身で治癒への行程を歩んでいるということをもまた、意味します。

つまり「治癒に到るポイントを、からだが気持ちの良さを通して教えてくれる」というふうにも言えるわけです。

病気・症状は辛い思いをするのではなく、気持ちのよさで治るのです

さらに、実はこのとき、操者にも「心地よい感覚」があります。
からだからの反応(感応)が感じられ、それが操者のからだにも波動がシンクロするのです。

前出しましたが、

「なにか変化する感じ」
「フワ~っとする感じ」
「通ってくる感じ」
「ゆるむ感じ」

などがあるのですが、総じて「イイ感じ」といってよいでしょう。
この、よい反応というのは、操者にも心地よいのです。

整体とは、片一方がもう一方にひたすら奉仕するイメージがありますが、本来は双方癒やされるべきものと、私は考えています。


操法の奥義

「観察」においても「操法」においても、その過程においては、BODY(物理的なからだ)にではなく、敢えていえば「生命のエネルギー磁場」にアプローチする、これこそが奥義とも言えます。

具体的に言いますと、「観察」においても「操法」においても、圧を加えることはありません。
患者さんが、少しでも「押されている」という感覚を持つようでは、やり過ぎなのです。

BODY(物理的なからだ)で確認しようとしますと、どうしても力が入ってしまいます。
それでは、観察も操法も通りにくくなります。

† † † 

たとえば観察。
流れを感じるのに、BODYからそれを得ようとしますと、あまりうまくいきません。

BODYではなく、イメージでけっこうですので(BODYを覆(おお)っている)「生命のエネルギー磁場」にアプローチをしていただきますと、そこには流れるベルトコンベアーを感じることができます。
そうしたらもう、しめたものです。

そして流れを感じる際に大切なことは、自分自身の手指を流れに沿わせない(ベルトコンベアーに持っていかれない)ことです。
自分の手指は固定し、そこに流れるベクトルを感じるのが、確実です。

† † † 

そして操法。

こちらは、やってみていただくとおわかりになると思いますが、ベタッとくっつけてしまいますと、反応が途絶えてしまいます。
「生命のエネルギー磁場」にアプローチできている操法は、からだが反応している状態が操者にも、よく感じられます。

ちょっと頼りないくらいの、さわるかさわらないか、あるいは紙一枚隔てたくらいの手当て、これがイチバン通ります(観察も操法も)。
力も要らず、まったく難しくはありません。

† † † 

治そう治そうとしてしまいますと、どうしても力んで前のめりになりがちです。
これではとっちゃらかって操法になりません。
鼻息荒いのは、ダメダメです。

ですので私は、私の生徒さんには、「さわらないようにさわりましょう」と指導しています。

† † † 

この整体操法はこれまでご案内のとおり、テクニックの要素は微塵もありません。
究極的に言えば、簡単か難しいかという問題、これらが存在しない地平線に在ります。
どれだけアタマを真っさらにして、感じることに集注できるか、これこそが直に成果に結びつくファクターとなります。


整体操法のまとめ

まとめますと、観察によって、病気や症状の隠れた大本の問題を特定し、そして操法によって本丸が自ずと調整され、それによって病気や症状の必要がなくなり、以て治癒が成される、という考えです。
そこには、「治す」という行為が入り込む隙はありません。

「治す」のではなく、「治る」のです。

† † † 

心身は壮大で精妙なパズルのようなもので、それを解き明かし、ほどくことを整体操法と呼んでよいでしょう。