Home > セミナーテキストの公開にあたって > 第一章 はじめに

一、はじめに

私はこれまで十年余のあいだ、整体をおこなってまいりました。
それは苦悩の連続でありましたが、同時に喜びもありました。


いかにして愉和法は生まれたか

苦しんでいる人を助けたい、これはほとんどの人が自然に思うことです。
しかしそう思っても、技術がなければ助けることはできません。

その技術を習得したと国家的に認められた人が、いわゆる医師と呼ばれます。
ですから苦しんでいる人は、医師の許を訪ねます。
もちろんそこでよくなれば、なにも問題はありません。

しかし、私のような者のところに来られる方は、存外多い。
お話をうかがいますと、病院へ行ってもいろいろな治療家の許へ行っても、どうともならなかったという由。
こういったケースはしばしば、あります。

このように、「なにをやっても、どこへ行ってもよくならない」という方たちがあるから、この整体ができたと言って過言ではありません。

言葉を換えて言えば、それがこの整体の存在意義ということになりましょうか。


整体をする者の苦悩

そんななかには、遠方からはるばる来られる方もあります。
膨大な時間をかけ、施術料金をはるかに超える交通費を費やさなければならないなんて、本来はおかしいことなのではないだろうか。
本当はもっと近くに、きちんと診察できる所があってしかるべきなのだと思うのです。

また、遠くから来られる方をお迎えする私にも、とても大きなプレッシャーがかかります。
正直なところ、そういった方からの予約が多くなりますと、重圧で胃が重くなることもあります。

† † † 

実際のところ、だいたいのものは、さして難しいと感じることはありません。
しかしなかにはこじれてしまっていて、時間を必要とする方もありますし(仮にもしもこれを不自然に短期間で治すということをしてしまいますと、それは摂理に反しますので逆に、からだに負担がかかってしまいます)、難儀する方も、どうしてもあります。

本当はどんな病気、症状でもすぐに治ればよいナと思うのですが、残念ながら100%を治すことができるのは、神さまだけです。

とどのつまり整体をする者は、完全100%という到達不能な頂上に向って、常に登り続けなくてはならない宿命を負った登山者のようなもので、まさしく因果な生業ではないかと、時折思うのです。
これこそが、整体をする者の苦悩と言うべきものでしょう。


整体をする者の喜び

しかしその一方では、この仕事には、よくなったときの喜びというものがあります。

どこへ行っても、なにをやってもよくならない、もうこれは治らないものだと思っていたら、よもや思いがけずよくなってしまった・・、という塩梅に唖然とする方もあります。

また、病気や症状がよくなるだけではなく、しばしば心も変わります。
1回の操法で、表情がまったく変わることさえ、あります。
人生が変わったという方も、あります。

ときに、苦悩を遥かに超える喜びに満たされるときが訪れます。
これはそのまま、まさしく整体をする者の幸福でもあります。


「治る」ためには「治さない」のがコツ

私は、喜びの方を増やすため、絶大な努力と考察を重ねてまいりました。
これはもちろんお客さんのためであるのが第一ですが、同時に、自分自身の納得のためでもあります。

そのため、なぜか、いつしか私の操法は類を見ないほどに独特なものとなり、他のどの療法とも根本からして異なるものとなってしまいました。

† † † 

ハタから見ていても、揉んでいるわけでもなく押しているわけでもなく、骨を動かしたり矯正しているわけでもなく、ただじっと手を当てているだけで、一見、なにをしているのかわかりません。
しかも、手を当てているとはいっても、触れてるか触れてないかわからないくらいのものです。

それで病気や症状をはじめ、からだそのものがしばしば大きく変わってしまうものですから、そんなときは、まァ驚かれます。

「いったいなにをやったンだ?」、と、よく聞かれます。
いや、実は私はなにもしていないのです。
からだが勝手に変わっただけですから。

私が変えたり治したりするのではなく、からだ自身が自発的に変わり、それによって治るのです。

このように、操法の見た目も考え方も、これまであった、どのようなものともまったく似ても似つかないものとなってしまったのです。

† † † 

この操法と、(医学をふくめ)その他の療法のいちばんの大きな違いは、「操者は治さず、一切の刺激を与えない」ということになりましょうか。

  「ヘ?いったいナニを言っとるのかね?」
  「治さないでどうやって治るっていうんだ?」

はい、「治る」ためには「治さない」方がよいのです。

  「はァ?・・」
  「ゼ、禅問答じゃないんだゾ!」

いやいや、決してそういうつもりではないのですが・・

† † † 

たとえば「ほぐす」という行為があります。

ほぐすためには、

  *押してほぐす。
  *揉んでほぐす。
  *抜いてほぐす。
  *アジャスト(骨をバキッと鳴ら)してほぐす。

などがありますが、これらはすべて操者がからだに刺激を与えてゆるめようとしています。

あるいは、「病気を治す」という行為があります。
そのために、

  *薬を使って治す。
  *手術をして治す。
  *歪みを矯正して治す。

などありますが、これもすべてからだに刺激を与えることで治そうとしています。
ところがこの手法の操法においては、まったく逆転の発想から成り立っています。


手をふれるだけの不思議のヒミツ

この整体操法とは、これまで考えられてきたように、「コっている箇所をほぐす」、あるいは「歪んでいる箇所を矯正する」というものではありません。

「コるのも歪むのも、いや病気でさえも、それは必要があって」のお話です。
ですので、ただ病気や症状を消すことがベストであるとは考えません。

本当に大切なことは、まさに「どうしたらその必要がなくなるか」を解き明かすことの他ではありません。
必要がなくなりさえすれば、病気や症状は自然と雲散霧消します。

作為的に、あるいは強制的に治されたからだは、その大本の原因は変わらず残ったままとなるかもしれません。
もしそうだとしたら、それは脈々と、営々と生き続けることでしょう。
そうしたらいつか、また違う形で別の病となって表出するかもしれません。
もしかしたら、より大きく・・

† † † 

サン・テグジュペリの「星の王子さま」のなかで、キツネが王子さまに、
「大切なことは目に見えないンだよ」、と諭す場面がありますが、まさしく目にはさやかに見えない、病気や症状の水面下に沈んだ大本の原因こそが、変わらなければならない治癒への道程の最大のポイントなのです。

しかもその大本の原因というのは、先だって申しましたように、外側から他力で強制的に変えるべきものではありません。
治る力は、からだの裡(うち)に具(そな)わっているのです。

ですからなによりそれを引き出し、発揮させることが至上課題です。
この整体操法とは、本人が生来持っている治癒へと向かうスイッチが入るように働きかける、そのためのものに他なりません。
そのためには、一切の刺激は与えない方がよいのです。

実はそのようにして、本人の持つ力のみを発揮させた方が、目を瞠(みは)るほどに早く恢復(かいふく)します。
たとえばの話、ムリやり勉強させられた生徒と、みずから意欲を持って勉強した生徒と、どちらが成果が上がるか、これは明白ですよネ。

† † † 

この手法を用いた整体操法においては、

*操者が刺激を与えてからだを変える(治す)のではなく、あくまでからだ本体が自律的にみずから整い、その結果病気や症状を起こす必要がなくなり、以て治癒に到るよう、ただ導くのみ。
*そして操者は、あくまでただその経過を感じるのみ

掛け値なしに先記2点に終始するという、従来とはまったく異なる、いわばコペルニクス的転回を経た操法と言えましょう。

からだ自身がみずから変化して整った状態になること、これこそが本当の意味での「治癒」と言えるのではないでしょうか。
ですから厳密に言えば治療(作為的に操作をして治す)ではなく、むしろ指導(治癒へ導く)と言った方が真実に近いのかもしれません。

つまるところこの操法とは一切の力は使わず、手をふれるだけでからだの方で自然と変化してくれて、治癒に到るのをただ感じ、見とどける、かくのごとき塩梅(あんばい)です。
そしてそこには、タネも仕掛けもありません。

† † † 

私はかつて、人を治すことのできる特殊技術を身につけたいと思っていました。
しかし既出のごとく、治すということはある意味、弱くするということでもあります。
また、外側から帳尻を合わされたからだは、健康からは離れてゆきます。

人は、治るのです。
また、治る力はもともと持っているのです。
かくて、自分自身の力で恢復したからだは、より彊(つよ)くなります

不思議のヒミツと書きましたが、これをそのまま、からだの自然法則と呼びなおしてもよいのかもしれません。


これはマニュアル方式ではない

とはいえこの手法には、腰痛にはこのように、肩こりにはこのように、あるいは子宮筋腫だったらこのように・・、というような病気症状別のマニュアル的セオリーは存在しません。
これはとても大切なことですが、同じ病気でも症状でも、原因となっているからだの構造バランスは、ひとりひとり違うのです。

もしも「この病気はこれこれこうこうやればOK!」というマニュアルがあるのであれば、これはラクチンです。
ぜひそうあってほしいのがホンネですが、残念ながらそういったものがないから皆苦しんでいるわけです。

しかも病気や症状のある方が苦しんでいるのみならず、治療者も治せなくて苦しんでいるのです。
ひとりひとり違うものを一括りにして、統一したマニュアルにしようとするからムリが出る。

そうではなく、ひとりひとり異なった個別のからだを読み、そのからだに添った真の問題を解読しなければ、解決はないのです。


この整体は易しいのか難しいのか

そんな整体だったら、もしかしたらさぞかし難しく、よほどに修練され、鍛え上げられたハンドパワーが必要とされるのではないか・・、と思う方もあるかもしれません。

ところがさにあらず、原理もとてもシンプルで、なにかを覚えなければならないこともなく、一切のテクニックもパワーも訓練も必要ありません。
ただ、手を当てるだけです。

この整体の操法とは、決して特殊技術ではないのです。

このことはこの本において、最も私の言いたいことでもあります。
ハンドパワーはきっちりゼロです。
母親が子どもに手を当てるごとくに、むしろ本能の所作に過ぎません。

† † † 

よく、病気や症状がよくなって、あたかも奇跡のように言われることもありますが、それは私のハンドパワーのおかげなどではありません。
ましてや、最近大安売りのゴッドハンドの所為でもありません。

もし奇跡が起きたとしたら、またパワーがあったとしたら、それは操者の持つものなどではサラサラなく、まさにご本人の持つ治癒力そのものの賜以外ではありません。

操者は、なにもやらないのです。
いや逆に、やってはならないのです。

必要なことは手を当てて、ただ感じることだけ。
それだけですから、カンタンといえばとてもカンタンです。

† † † 

私はお客さんに、「これは、誰の手でやっても効果は同じなんですヨ、ハンドパワーはゼロです、ご自分でもやってみてください」と言います。
お客さんは、「またまた~!」と言いますが、ホントにそうなんです。

あるとき、お客さんから報告があり、

「教わったポイントを自分でいろいろやってるうちに、スッと痛みが引いてラクになりました。」

「清水さんのやってるのを見よう見まねでやってみました。そしたら夫のイビキがなくなりました。」

などなど、連絡をいただいたこともあります。

† † † 

たとえば外科手術、これは見よう見まねでやったらタイヘンなことになってしまいますよネ。

ところがこの操法は手を当てるだけ。
たとえ失敗したって、相手のからだを毀(こわ)すこともありません。

うまくいけば、病院や治療院で治らなかった病気や症状がよくなるかもしれません。
しかも、テクニックの練習も要らないのです。
見よう見まねだとしても、これは、やらない方が損するのではないでしょうか。

ただこれを読んでさえいただければ、原理もシンプルで手を当てるだけですし、ちょっとやってみよう、という気持ちさえあって、さほど高くはないハードルさえ跨げば、誰でもできちゃうものなンです。

もしかしたら、ご家族が病気や症状で苦しんでいるという方もあるかもしれません。
また、こういった世界に関心を抱く方もあるかもしれません。

この本はまずもって、「それならやってみよう!」と思う方々に向けて書いてあります。

† † † 

この操法は、実際にはざっくりとやっても、あるいは極端な話、見よう見まねでやっても、それなりの効果が出てしまうことも意外とあります。
ただし、なかには非常に幽玄で微細な流れや反応をキャッチすることが必要となることもあります。

裾野は、おそらくどんな療法よりも広大ですが、その奥行きはさらに広く無限で、生命の神秘の深淵へと到るものです。
どこまでも緻密に細かくなり得ますし、どこまでも深くなり得ます。
それは、森羅万象(しんらばんしょう)の襞(ひだ)までもかいくぐるような趣(おもむき)を呈することもあります。

したがって、とてもこじれていたり、難しくなっていたりするような病気や症状を扱うプロになりますと、相応の内容も必要となってきます。
この本では、そのような方々に向けての事項も、記しておきました。

とはいえ、基本はまったく同じです。
「感じること」、これのみ。

プロとアマの違いは、「感じること」の精度のみと言ってよいでしょう。
やるべきことは、いささかも違いません。


これを未来に残すことができれば・・

これまで数々整体をおこなってきて、以上のごとく「治さない」という操法が、実は「治る」状態へと導かれる、たいへん重要な要素を担っているということが諒解されました。

それともうひとつ、「この整体操法でなければこのターニングポイントは見いだすことができず、それが変わらないことには治癒はあり得ない」という経験を何度もしてきました。

どういうことかといいますと、ズバリ「患部と原因は離れている」ということです。
しかもその原因というのは表から見えることはなく、レントゲンを撮っても触診をしても、わかるものではありません。

しかし患部から離れたところの大本の原因が変わらないことには、本当の意味での治癒はないのです。
これでは巷では苦しむ人は減る道理がない、と思いました。

病気や症状を起こしている、その本当の原因の見つけ方こそが整体操法においてはなにより重要であり、クローズアップされなくてはなりません。
そしてこの、大本の原因が変化する、その過程こそが治癒へのターニングポイントとなるわけです。

† † † 

かくのごとき整体操法が、もしもたいへんに難しく、私だけが大天才で、私以外には誰もできそうにない、ということであれば、私一代で終わりにしてよいでしょう。

ところがある時ふと気づいてみれば、やることといったら「手を当てるだけ」。
あとは「感じること」。
言ってみれば、このふたつだけ・・です。
ほかになにか勉強したり覚えたり、訓練したりということは、なにもありません。
んん・・? なんだかぜんぜん難しくないですよネ。

† † † 

私は整体操法に関しまして、これまで長い年月を日々悩みに悩み、七転八倒して精進、切磋琢磨してまいりました。
もちろんそれは、これからも同様です。

それは、ひとりでも多くの人をよくしたい、病に苦しんでいる人を減らしたいとの強い思いからです。
そのようにして徐々に徐々に、現在のような形に辿り着いたのです。

通常は、さらにいろいろな要素を加えていったりしますと、より難解になり、より複雑になっていったりするものです。

しかし今、ふと立ち止まってみますと、こんなに、これ以上はないというほどまでにシンプルなものとなっていたとは・・、自分自身、愕然としています。

「せめて、もうちょっと難しくてもいいのに・・」
「これだったら基本、誰でもできちゃうじゃないか!」

そう、凡人の私があらためて気づいたのは、まさにこのことでした。

もしも多くの人々がこの整体の、あまりに単純でわかりやすい原理を理解し、危険もなくテクニックも必要ない、手を当てるだけの操法を家族や友人どうし、また隣近所どうしなどで日常的にやるようになったら、どれだけ恐ろし・・、いや素晴らしいことだろう・・
そう、思うようになりました。

† † † 

いつしか、この整体の操法を未来に残さなければならない、私はそのような思いと願いを抱くようになりました。
そうしたらあらゆる病気、痛みをはじめとし、あらゆる愁訴、原因不明の症状などなどに苦しむ人は大幅に減ると、私は確信するのです。

そこで私は、もしも自分自身がこの世からいなくなっても、誰もがそれを読めばこの整体が理解できるような内容の本を残しておけば、─決して大げさではなく─、人類の文化遺産として未来永劫まで多くの人々の助けになると思うに到ったのです。
かくして、筆を取った次第です。

† † † 

ときに、この本の内容は通常の感覚で理解できるものばかりであり、決して難しいものはありません。
専門用語も使っておりませんし、また、そもそもその必要もありません。
ただし、これまで疑うこともなく信じてきた常識を、ちょっとだけ外していただくこと、これだけは必須です。

むしろ敢えて言うならば、宇宙森羅万象、自然の法則を詩的に謳っているポエジ、あるいはオマージュだと思っていただいてもよいのかもしれません。